ポジティブ幻想の男

しょっぱなから源慧の話です。(もとの日記から移動)
年末に『現代用語の基礎知識』を戴いたので、興味の赴くままぺらぺらめくってみたページに、「ポジティブ幻想」という項目がありました。

ポジティブ幻想とは?
人は、真実の自分を知ることを心のどこかで恐れているようなところがあり、特に自尊心の高い人は、現実を実際よりも肯定的に見て、内省をやめたり、歪んだ自己像を捏造してしまうことがある。
しかし、欧米のように、他者との相違が大きいことをプラスに評価されるような社会では、結果的に社会へ適応した生き方となり、たとえ人の和が重視されるといわれる日本においても、いちがいに悪い傾向とは言えない。
ただ、自分の「本当の」姿よりも、ずっと優れている方向に自己像を歪めて描く傾向を言うので、やはり、どっか歪みが生じている状態には違いない。

「海坊主」の源慧さんはまさにポジティブ幻想の男だったと思うんですね。


源慧は意識的に妹さんを見殺しにしてしまうわけです。しかし自分を責めながらも生き延びた。
彼は貧乏で単調な出身地の生活がイヤで、島を抜け出せる僧侶への転身をきめたのですから、もともと享楽家な性分です。しかし、人の情けや痛みをまるっきりわからないといった、冷たい性格でもありませんでした。
その後の生活で彼は自分を死ぬほど責め続けるのですが、でも死なないわけです。本当に気持ちが折れてしまった人は死んでしまうのです。
彼は生きることを選びます。生きることで償おうとします。そういう発想ができるのは、自分に価値を見出せる人です。
源慧さんは根っからポジティブなのです。
しかし、そんな源慧さんだったからこそ、モノノ怪によって荒れる海の噂を聞いて、人柱に立った妹のお庸さんが、世間を怨んで海を祟るという連想を鵜呑みにしてしまうのです。もっとも、お庸さんの境遇を考えれば、それは無理からぬこととはいえます(それに、物語としても、祟りがあったほうが、むしろ辻褄があうような気がします)。
源慧さんは、身近で育った兄という立場と、悟りをひらいた僧侶という立場の両方から、彼女が怨んだりするひとではないことを、理解できてもよかったのですが、怨まれているのではという疑心を捨てられなかったので、モノノ怪を妹だと思い込みます。
それでも、源慧さんは物語のなかで、高慢な生臭坊主、には決して描かれていません。
ポジティブ幻想の背後には、自分でも気がつかない心の眼が、自分でも思いがけない価値観でものごとを見ている可能性があります。彼の姿は善悪のつけがたい人の心をあらわしているようでもあります。