モノノ怪エンディングは人体なんだ

モノノ怪各話のラストを華麗にしめくくる、色鮮やかなエンディング映像。キレイめな中に一風変わったモチーフが組み込まれ、なにやら意味ありげな気もします。


解をもとめてあしかけ3年。にしてはうすっぺらいものの、できるかぎりモノノ怪っぽい解釈を試みようと思います。よければ長文、おつき合い下さいませ。

 ☆ ☆ ☆


まず、全体をざっとみてみましょう。


目玉もようのチョウの羽が一瞬視界をよぎり、消えると、画面は横スクロールに。最初に見たチョウが、右から左へひらひら飛んでいきます。背景は豪華なピンクゴールドの金屏風。唐草模様が描かれ、工芸品のように装飾的です。
下のほうに繁茂する草花が、リアルなシルエットで描かれています。連綿と続く草むらのあいだには蛍光カラーの虫たちや花々がくっきりと浮かび上がります。


さて、チョウが去り、明滅するライトが視野を白く覆うと、エンディングも後半です。画面は縦スクロールとなり、背景は障子ごしに照らされた影絵のような世界にかわります。
視点があがるにつれて、影絵は刻々と変化してゆきます。障子枠、燭台、波模様、吊りランプごしにレトロな格子枠。
そして、画面右で蟻塚というか、塔のように絡み合うのが、なんと人間の腕(!)です。


オーラス、絡み合う(決してみずから組んでいるわけではない)手(腕)のてっぺんの、手のひらに止まったチョウは煙となって消え、辺りがほの暗くなります。
まるで腕は燭台、チョウはともしびであるかのよう。


キラキラゴールド+モノトーン。昨今のレトロキッチュリバイバル的キモカワ風景を描いているように思われます。というか、実際そう(笑)
前半部分の、リアルに描かれた虫たちは、若冲の「菜蟲譜」から着想を得ているような気がします。
http://www.city.sano.lg.jp/museum/index.html
佐野市立吉澤記念美術館へのリンク。デジタルアーカイブの「菜蟲譜」展示)
なぜそうおもったかというと、モノノ怪の美術が、奇想の画家たちの作品に多く負っているところからきた連想なのですが(笑)あと横スクロールつながりとか…前半だけですが…


上記のリンク先をごらんになってもわかるとおり、そもそも「菜蟲譜」はタイトルのごとく野菜と虫だけを描いた画巻です。色も自然界のリアリティに準じて、ごく普通に地味です。


2つの作品に共通する点といえば、エンディング前半のリアルな虫たち。だけかよ。いやいやまぁ。
タツムリ、トンボ、カマキリ、バッタ、ケムシ、ムカデ。シルエットではありますが、四肢がしっかりと描き分けられています。
虫をはっきり虫と(しかも種の識別までできるほど)認識させる、細かな描写をあえてくわえたところに、「菜蟲譜」との強烈な因果(笑)を感じるのです。


なぜ、エンディングは派手な、自然界とは異なる配色なのでしょう?リアルなかたちの虫がいて、リアルなかたちの花を加え、野菜を退けたのはなぜ?
(というか、そもそも置きかわっているといえるのか?配色もモチーフもほとんど異なるというのに?…まぁ、その疑問はとりあえず覚えておいて、どうぞ先を読み進めてください。)


おそらく描き手(作り手)には、ディテール(細部描写)をそなえた虫たちが必要だったのです。逆に、野菜は不要だったのです。野菜が花にとって変わられたともいえます。美しい花畑をたんに描くのみでも、「菜蟲譜」をなぞるだけでもダメだったのです。
まぁ、これは「菜蟲譜」が元ネタだったら、の話なんですが…ね。


草花も虫たちと同じくらい妙にリアルなのも気になります。シルエットとはいえ、ディテールだけで花の名前がわかるほどしっかり描きわけれらています。萩、葛、菊、われもこう、ヘクソカズラ、そしてススキか葦のような葉。
この草むら、いわゆる「秋草図」のような気がしないでもなりません。
http://www.tohaku400th.jp/sakuhin_2.html#03
国宝「松に秋草図屏風」(京都・智積院蔵、東京国立博物館特別展「長谷川等伯」に展示)


花の識別は深読みしすぎ。ここには桔梗、藤袴、女郎花、尾花もないですよ。吾亦紅はやっぱりデンファレかも。さいしょケムシだと思ってた長細いつながりは、花だとわかったときには、ルピナスムスカリかと思いました。あるいはキンギョソウリナリア)とか。
でも、秋草だとすれば、とりあえずモノノ怪美術っぽい(笑)


いずれにせよ、リアルな描写は意図的なはずです。虫がリアルなので単なるデザインの統一とも考えられますが。


ここでいったん疑問をまとめてみましょう。

  • なぜ、虫たちや草花をリアルに描いたのか?
  • なぜ、リアルさに違和感をおぼえるのか?
  • なぜ、虫と草花であって野菜ではないのか?
  • なぜ、人間の腕が描かれているのか?

これらは描き手のイマジネーションから出たオリジナルなイメージ、あるいはまたしても、参考となった画があるのか。


いままでのパターンからすると、どこかに元ネタがありそうですが…それは見つからなかったので、ここでは「なぜ描き加えたか」に焦点を絞って解釈をすすめます。ぶつ切りの腕のネタ元があるにせよ、それは若冲ではないでしょう^^
描き手が必要としたからこそ、虫も花も腕も描かれたはずですから。


なお、チョウについては「魂の表象または暗喩」という解釈があったり、「常世の神」などというイメージも一般的に知られていますので、ここではまるっと説明を省かせていただきます。
それから、虫(特に姿かたち)に違和感を覚える心理については「生理的・本能的」「習慣的・先入観」が当然あるという前提です。
個々の主観がどれだけ解釈に影響するか、占める割合はとてもでかいとは思われますが、これまた、読み手のさばさばリテラシー(生温かい目)の裁量にまるっとお任せいたします。



では、最初に、元ネタとおもわれる「菜蟲譜」の解釈からしましょう。充分とはとてもいえませんが、野菜について多少説明したいので…。


草と虫を描く絵画を、そのまんま「草虫画」と呼びます。「菜蟲譜」も草虫画の延長にあるとかんがえられます。中国絵画の一ジャンルで、サバービアンなインテリ若冲が知らないはずもない立派な画題のひとつでありました。


この草虫画はひろく花鳥画のなかに含まれ、中国では唐末〜五代ころにはよく描かれるようになり、宋代には現在みられるようなリアル描写が確立したようです。あっさり書いてますがこの間少なくみつもっても300年以上です^^;


で。
中国で描かれるモチーフにはどれも、ほぼすべてといっていいくらい、吉祥(招福や除厄)の意味が含まれています。すべてのモチーフが必ずそうではありませんが、吉祥モチーフだからこそ(好んで)描かれるわけです。


たとえば、日本でもよく知られた、金魚、唐子、蝙蝠などですね。
動物系は四聖獣に瑞獣、鶴亀、魚(双魚)。鼠やリスは多産の象徴。チョウやセミやコオロギなども繁栄や来世の幸福をあらわします。
植物は松竹梅、牡丹、甘草(カンゾウ)、菊など。蓮や葡萄は仏教やペルシャとの関連か。小鳥が花などをくわえた吉祥文様もありますね。そしてキャベツや白菜などの根菜は忍耐の意味があり、転じて才能の開花や出世を意味します。ツル性の植物もたいてい繁栄の印でした。


おおざっぱに言って、絵のなかでひときわ目立つ美しい花卉や獣は、主君や主人を象徴します。
そして、その周囲に描かれた小禽(小鳥やちっこい生き物)や虫や野菜など、細かいモチーフがごちゃっと群れていたら、長寿や多産や子孫繁栄の意味が込められた、絵の持ち主をことほぐ立派な吉祥絵とあいなります。
ツルを茂らせた瓜の周りに、群がる虫たちを描くのも同じような意味です。つまり主人よ繁栄したまへ、子々孫々までというわけです。
http://www.nezu-muse.or.jp/jp/collection/detail.php?id=10395
瓜虫図/呂敬甫(りょけいほ)筆 明(14〜15世紀)根津美術館
むろんモチーフはアイコンではありません。が、モチーフに一定の意味が定まると、その使い方や組合わせで自然にTPOも決まってしまいます。
中国の吉祥モチーフは数多く、そのディテール描写も使用パターンもほぼ代替をみとめないとても厳密なルールがあります。
なんというか、最終的には吉祥にたどりつくんですけど、中国語の韻や読みつながりだったり、故事からとられた意味だったりするらしく、法則に従ってあらわされる論理的で関数みたいなところがあります。地位を装束やバッジで表したり、カーストを名前で区別したりという厳密さとはまた違う、言語のようなものではないかと思います。


遣隋使の昔から、日本は、巨大で古い中国文化をひたすら輸入しては国土に合うようつくりかえる、といった活動をくりかえしていました。とうていぜんぶ吸収できませんし、政治的な思惑などもからんで、すべてを輸入したわけでもありませんでした。


それでも、これまたおおざっぱに言うと、戦前までの日本には、中国ルールに沿った吉祥モチーフが、生産活動や信仰、娯楽を通して、ひろく諸国庶民にまで浸透していました。
絵ごよみや浮世絵、くくり猿などのおもちゃ、各地の屋号や家紋などのデザインに、その名残がみてとれます。
http://www.bihana.jp/
西瓜図/葛飾北斎
東京国立博物館特別展「皇室の名宝―日本美の華」より 作品紹介から探してください。)
http://www.mfj.gr.jp/web/sem/Imahashi.html
西瓜図のもつイメージについて(今橋氏のセミナー予稿より)


しかし世の常として、絵にかぎらず、好かれたものほど、後世に残りやすいのです。
花鳥画のなかでも花モチーフ鳥モチーフは、わかりやすく美しく、意味的にもめでたいとなれば、需要もたくさんあり沢山描かれます。模写もされます。
しかし野菜や虫はちょっと地味ですし、風習からは受け入れがたいものもあったりします。たとえば蜘蛛や蛸。吉祥モチーフといわれても、生理的にダメな感じがして日本人に需要がなかったりすると、日本ではますます描かれなくなります。


つまり、中国からきた吉祥モチーフは、とりあえず知識としては吸収されたものの、取捨選択されつつ、どんどん忘れられていったのです。そりゃそうですよね、輸入モノの文化ですから。
本家中国でも、民間レベルでもモチーフの意味が継承される一方、消えたりマイナスイメージになったりしたモチーフもあるようです。韻や音によるイメージのつながりは、わりと現代でも吉祥で意味が通るらしいけど、そうした言語つながりの意味は、日本だとよけい、すたれるのも早かっただろう。


だから現在、牡丹の花のまわりにチョウチョが群れているのは、なんとなくめでたいと理解できても、トンボやらバッタやらがまじっていると「?」となってしまうのです。野菜や虫の絵をパッと見せられて「なんか古くさい」「すげえ上手いのはわかるけど、なんで題材がコレなの」「昔のヒトって変」「謎」…という感想になってしまうのです。
「すげえ細かい」写実画は、日本へは西欧文化からも輸入されましたが、それよりずっと古い時代に、すでに吉祥モチーフとして、沢山の中国の写実画が日本に来ていたのです。



これで、かりに「菜蟲譜」がモノノ怪エンディングの元ネタだったとして、なぜリアルな虫が描かれ、また野菜が花に変わったかの説明があるていどつきます。


虫が描き加えられていると、人は違和感を感じます。
エンディング前半はチョウ(魂)が遊飛する異世界です。いわゆる「胡蝶の夢」のイメージです。
その異世界を、単なる安心なお花畑にしないために、描き手はわざと、虫を描いて違和感を起こしています。


現代の日本には、草むらにいる虫など生理的、習慣的な嫌悪感からせいぜい害虫くらいのイメージしか残っていません。
たとえ漠然とした“違和感”にすぎないとしても、人の心理に不安感を呼び起こすため、虫の姿はとても効果的なのです。


色もリアルに近い虫を描いたら、さらに効果的では?…たしかにそのとおりでしょうが、虫の色がリアルだと、普通の草むらや黒一色の草むらでは目立ちません。
蛍光カラーで切り抜かれたような虫の姿は、一見ほかのライトにまぎれて絵的に浮くこともなく、しかも、かたちのおかげで見間違えることもありません。キモチ悪さも抑えられます(笑)シルエットの識別効果があますとこなく生かされているのです。


ところで、中国の草虫画において、虫や雑草や鼠などの小禽が描かれるのは、時間の経過を象徴しているのだそうです。
これは大学のホームページや花鳥画の一般書に書かれています。


小さい生き物が、人間よりも早いサイクルで栄えたり衰えたりするようすを見た昔の中国の人は、そういう小さな生き物があっというまに子孫を増やしていくところに、繁栄の兆しをみたのでしょう。


中国からきたモチーフが、吉祥としての意味も持ちつつ、日本の土着思想や「もののあはれ」という、はかないいのちを愛惜しむ情緒とむすびつきます。
そして、くり返し描かれ、現在まで描き継がれました。


描き手が「菜蟲譜」からモチーフをえらんだなら、虫たちの姿には、日本人のもつこうしたおぼろげなイメージが、そっと重ねられているのです。


ただ野菜となりますと、野菜にはもうしわけないのですが、ちょっと違和感いきすぎという感じがします。イチゴとかウリ科の実のフォルムならカワイイかも、でも白菜、大根、かぼちゃ、茄子、ウリとか、ゴロゴロ描かれていても…「畑かよ」。これじゃギャグです。
だいいち、シルエットで野菜を描きわけるのはムリです。草むらに白菜や冬瓜があっても見分けられません。
胡蝶が遊ぶような異世界といえば、似合うのはやはり、綺麗な花々という気がします。


そして、描かれた花々がもし秋草であるならば。
日本で秋草となればまさに「うつろう世のあはれ」「失われゆくものへの愛惜をこめた賛美」がうかびあがってきます。


とすれば、あのエンディングは「菜蟲譜」と「秋草図」の融合したものといえるかもしれません。


菜蟲譜」も右から左にスクロールする画ですが、最初の野菜群=多彩で豊かな実り=幸福な人生、
虫やオタマジャクシの群れ=栄枯盛衰=人生の変革期、
ラスト、毛虫はチョウに、おたまはカエルになり、また野菜も実りを迎える=人生の終盤(に迎えるはず)の幸福
なんてみえかたもしてきます。



いよいよ、残るは「腕(手)」の解釈です。
表記に「手」「腕」(手)など乱れがありますが、だいたい、ヴィーナス像が失くしたあたりを指していると思って読んでください。


エンディングの後半に描かれた「腕(手)」は、一見して前半の草むらと見紛います。植物のシルエットのなかに、よくみると指があって、手があって腕、というわけで胡蝶の夢から一転、ゴシックホラーな世界。


「手」という言葉を辞書で引くと、たくさんの意味が出てきます。
鍋の「とっ手」や「山の手」のように無生物であれ、「手」とは、かならず「誰か(何か)が所有している一部分」のことをさします。持ち主のない手、誰の手でもない手、というのはありません。


所有者のない「手(腕)」はじっさい存在しません。アバターじゃないけど、ドライバーとなる人がいてはじめて動かせる器官ですから。
その「手(腕)」が単独でゴロゴロある(ようにみえる)。奇怪な印象をうけるのも当然です。シルエットで巧妙に隠されながらも、ぎょっとするような絵づらです。


「手(腕)」は、その細長いかたちで、指し示すはたらきをします。視線が自然に、手の先や手のつけねにいざなわれるのですね。


しかし「手(腕)」が描かれていて、そのつけねにあるはずの体がなかったら、視線(精神)はとまどってしまい、逡巡するはめになります。


このアレ?となる違和感を、視聴者に感じさせるのが、描き手のねらいなわけですが。
たんにホラーな雰囲気をかもしだすために、腕をツタのようにからめたのでしょうか?…や、そうだとは思うんですが^^;;;
しかしながら、「手(腕)」に対応する「眼」なら、じつはすぐそばに飛んでます。もうおわかりですね。


いったん、「手」の解釈に戻りましょう。
「手」は、人の精神の命令を実行します。たいていは忠実にです。
ところが往々にして、人の命令で下された手の行為が、人自身の精神をがんじがらめにしばります。


「手を出して」失敗し、「手を貸して」「手を切られ」「手を結んで」裏切られ、「手を下して」「手をこまねいて」後悔し、「手をあげて」傷つけ、…


手は因果を生む器官なのです。自らはたらきかけて因果と縁をつむぐのは、手です。


そして、「眼」。
前半で孤高に飛び、後半で群がっているチョウたち。かれらの翅には、目玉模様がちらばっています。チョウではなく蛾なんじゃ、といわれるのも、このガっぽい目玉が一因ですね。
とりわけ、前半の孤高のチョウは、意味深です。薬売りの着物の模様でもあり、目玉のアップも半端じゃありません。


「蛇の目」は魔除けの文様で、弦巻紋とも称されますが、とにかく“見返す眼”が怖いかたちです。「こっちみんな」というやつです。
ちなみに昆虫の蛇の目模様を、

  • 眼状紋(がんじょうもん、eye spot)

といい、天敵を脅したり、攻撃を羽などに逸らして、致命傷を避けるために発達したとのこと。


つまり鳥なんかも、眼というものは体にくっついているのがデフォだとわかっていて、

  • でかい眼の持ち主=でかいカラダの生き物→ヤバい食われる
  • 小さい眼の持ち主=食べ物

といった認識で、逃げたり、襲いかかったりしているのです。


眼もまた肉体と無関係には、存在し得ない器官です。当たり前ですが。


では、「手」が肉体にくっついて、精神に従って因果をつむぎ出す時、「眼」は、何をしているのか。


眼は、ことの起こりから終わりまで見届け、受け止めています。
ここで器官ごと、またまた切り離して考えることもできますが、映像のチョウの翅には眼がくっついたままですので、それはなしとします。


チョウ=魂であり、眼がついたチョウは、人間の頭部==精神の象徴。
しかも、おそらく、因果の持ち主自身ではないかと思われます。


因果から解き放たれた魂は、浮き世を眼下に自由に飛びまわっていても、やがて望むと望まざると「手」のつむぐ因果にひきよせられるのかもしれません。因果を見つめる「眼」を持つがゆえに、人としての性(さが)を捨てきれずに。


とはいえ、エンディング前半の孤高のチョウは、後半の群れとは、ちがうものかもしれません。
前半は因果から解放された、後半は結局解放されなかった象徴ともいえそうです。
絡み合う腕が燭台のようであったり、背景にともしびや波(流転)が描かれるのも、魂が惹かれあい群がるさまと無縁ではなさそう。
誰のものとも知れぬ腕がからまりあうさまは、人の因果の複雑さそのままに、あるいはひとりの人間の、人生におけるさまざまな所業の数だけ絡み合う…ということかも、しれません。

どうせまた何かに生まれ変わるのなら/神様 おれはテントウムシになりたいよ
モーサム・トーンベンダー「Jack The Tripper」

人が、人以外のなにかに生まれ変わりたいと願うとき、ほかの生き物になりたいと本気で思ったりはしないで、ただ、因果の「手」から自由になることを夢見るのではないでしょうか。

もう一度心に手をあて/あたたかいぬくもり感じて
千切れる雲を見上げて/あなたは今何を願う
「下限の月」

魂が夢からさめて再び肉体に戻ると、「眼」を通して人は再び願うのです。


 ☆ ☆ ☆


おつかれさまでした。
内容はまた後日手を加えて変わるかもしれません。後半の「手」の解釈は自分でもあまり納得いってません。じゃあ前半は…自分では納得しているんですが、説明出来たかというと(泣)
解釈とは「よそさまにこれこれこういうデータがこんだけある、まとめて照らし合わせてみたらモノノ怪はこんな風にみえてくる」という主旨の文章です。
その点で、内容に納得いかなくても、データだけを眺めることができる(はず)。
解釈の手がかりになる検索ワードが拾えるような内容でありたい、みなさまが独自の解釈を持たれるお手伝いになりたいと、いつも書きたいだけ書く次第であります。
ブログのエントリにあるまじき長文、おつきあい下さって本当にありがとうございました。
プリントアウトするとA4紙4ページくらいにしかならないんですが、、、読みにくくてごめんなさい。ここまで読みきった方めさめさ感謝です。


 ★ ★ ★


おまけ───境界のあちらとこちら



ところで、肉体から切り離されてしまった腕は、腕であることはかわらないものの、肉体としての機能は失われます。
人(の一部)でありながら人(の所有)ではない、さらにいえば、あるひとつの肉体において、腕が断たれた状態と、つながった状態は、同時に存在できない、つまり、片方が「見える」ときもう片方は「見えない」。
これは、隈取やしぐさと同じはたらきです。


単体となった「腕」は、自然の虫や花の存在と同じものになります。自然界の生き物はなべて境目に在るからです。
人間のように因果をつむぐ「手」は、人間以外もちえません。腕そのものは切り離されたが最後、因果を背負いません。朽ちるだけの肉塊は、完全に解放されるのです。


こうして、切り離された腕はあちら側=虫たちに近く、胡蝶はこちら側=人そのものである、という解釈がうまれてきます。
しかし胡蝶は、みため、明らかにあちら側にも属しています。
いったいどこまでが現実で、どこから夢(イメージ)なのでしょう?…

知らず、周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを。
胡蝶の夢荘子ウィキペディアから)