その二 鷽


╋╋・‥… 鷽 …‥・╋╋


 酒をどこかで調達せねば、早晩切れてしまう。平治はぼんやりと考えた。
 朝っぱらから大家に、長屋から叩き出された。大家が茹でダコのように怒り狂うのも、無理はない。まいにち、近所の土間にあがり込んで、勝手に呑み食いするわ、かみさん連中や小僧ッ子をつかまえてクダをまくわ、鶏や犬猫を棒で追いまわすわ───かつての、いっぱしの鳶職の貫禄は影もない、まるで悪ガキの体たらく。
 人足小屋に逃げ込み、詰めていた若集とつるんで、よその助郷の雲助とひと騒ぎやらかした後、川の土手でひとり、午後いっぱい寝惚けた。起きて酒屋へ出向いたものの、滞ったツケのせいですげなく断られた。仕方なく町外れの賭場へ入ったが、賽の目には指一本さわらせてもらえず、気のいい仲間が、貧乏徳利にめぐんでくれるのを待って、またふらふらと外へ出た。
 町内の顔役でもある、大工の棟梁のにらみもあって、今や小銭すら融通する者はなく、文字どおり、平治はスッテンテンである。酔った勢いで女房の実家に押しかけ、親戚筋からも総すかんをくらった。あいつはもう駄目だと口悪くいう者も、日増しに多くなるしまつ。


 酒でぐるぐる回ったあたまに、小銭のありかが、ぱっと僥倖のようにうかんだ。


 平治は長屋へ戻ると、泣きわめく女房を怒鳴りつけて、提灯に火を入れさせ、ひったくるように取るとまた出かけた。あっちへ吐き、こっちへよろけ、なんとか目的の場所までたどりついた。既にとっぷりと暮れている。
 そこは、鎮守の木立が鬱蒼と茂る、天神の森であった。かなり高台にあって、参道の石段の一番上から見渡すと、きらきら輝く宿場のあかりが、幻燈のように映った。


 だが、ひいひいふうふうと登ってきた平治の目は、賽銭箱に釘付け。


「かかあも仲間も当てにならねえんだから、ま仕方ないってことよ」


 平治は独りごち、一抱えもあるどっしりとしたケヤキ箱を、どうこじあけたものかと思案をはじめた。大工道具?とうに借金のかたにとられている。


 そのとき、なにかがさわさわと鳴った。
 衣ずれのような、木の葉のあわさるような音である。
「ん?」
 賽銭口のすきまに手を突っ込んだまま、平治はふと顔をあげた。
「きゃあっ」これは、ドロボーがいきなり別の人間にでくわした悲鳴である。
「ななななんだおまえ、いつからそこにいたっ」
 青地に錦を描いた小袖を着た、見知らぬ男が、いつのまにか賽銭箱のわきに立ってこちらを見下ろしていた。
「どうも…」
 男は黒っぽい頭巾をかぶった頭を、わずかにさげた。「妙なところで、お会いしやしたね」
 ああ、つまりご同輩か?ともかく、追いはぎじゃなさそうだ。平治はほっと胸をなでおろした。
「おどかしやがって、なりも妙だぜ、どハデな若旦那。まさか六部じゃなかろう」
「いえ、いえ、私はただの薬売り」
「なる、でかい茶箪笥しょってやがら。辻神楽もやるのかい。薬屋、あんた不自由そうには見えねえが、こんな所であれか、宿代浮かせようって腹かい。今から歩いても、一里とゆかずに畳の上で寝られるってのに」


 薬売りを名乗る男は、うっそりと笑った。その顔には祭りで見かけるような隈取があって、なぜか不釣合いでもない。


「いえね、あたしは、その宿場から、きたんですよ。ちょいと、ヤボ用がありまして」
「こんな暮れの神社にかい?冗談は顔だけにしとけよ、兄さん」
「おや。それじゃあんたは、こんな暮れの神社でナニを、なさっておいでで?」
 平治はうっと言葉に詰まった。自分のこととなると、バツがわるい。とっさに嘘が口をついて出た。
「お、俺あアレだ、ふもとの町の鳶(大工)でな。こないだの地震で壊れた社の修理を、ここの宮司に頼まれたのよ」
「ほう。こんな時間に」
「おうよ、いろいろ忙しくて来れなかったんでな。提灯片手にえっちらおっちら、わざわざ登ってきたわけよ」
「賽銭箱も、壊れたんで…」
「い、いやま、どこもくまなく調べて呉れってんだから、手落ちがないようにな」
「成る程」
 薬売りはうっそりと頭を下げた。
「仕事熱心なお人で」
「おうよ。ふもとじゃ、ちったあ名の知れた、鳶の太平治たあ、俺のことよ。それより兄さんこそ、何か困ってんだろ。旅の空じゃ何が起きても、おかしくねえっていうからな」
「そうですね、私の困ったことといえば、なかなか姿がつかめないこと、ですかね…」
「は?なんだそりゃ」
「私はね」
 と薬売りは身をのりだして、平治に顔を近づけると、ささやくような声で言った。
モノノ怪を、斬りに、来たんですよ」
モノノ怪ぇ?」
 平治は素っ頓狂な声をあげ、鎮まりかえる境内にその声が銅鑼のように響いた。


 自分の声にぎょっとして、平治も思わずささやき返した。「モノノ怪ってぇと、あれか、妖怪変化のたぐいか?…この辺りじゃ、狐つきとよばれた上須の陣吉のひい爺がおっ死んでこのかた、狸もとんと化かさねぇって話だぜ」
「そりゃあ、その方が守ってくださってるからでしょう。でもね、モノノ怪がいたら、あんた、そりゃぁ…無事ではすみませんよ」
「祟んのか?」
 薬売りはじろりとこちらを見ると、無言で頷いた。酒が抜けるような心地がして、平治は重ねてきいた。「あんたはモノノ怪を斬れんのか」
「だと、いいんですがね。まだ、アヤカシくらいしか見つからない。」
 アヤカシ?「アヤカシとは人ならざるもの。なかには、凄い力を持つアヤカシもいる。そうゆうのがちょっとした変化で、モノノ怪になるとやっかいだ。そいつは、斬らねばならない…
 けどね、アヤカシなんて、ふだん見えないが、実はそこらじゅうに居るもんなんですよ」
 そういって薬売りは指さした。なまじの女より白い肌で、妙にとんがった爪をしている。
「ほら、あんたの後ろにも」
「ぬ?」平治は言われるがままに後ろを向いた。
 そこには───
 提灯があった。
 平治が持ってきた提灯である。
 その提灯が、どっかの説教の席で見た地獄図会そっくりの姿でぱっくりと口を開け、炎の舌でさかんに舌なめずりしながら、だれもいないのに、腰くらいの高さをふわふわ漂っているのだった。
 平治は両眼を剥いた。
「………!!!」
 仰天のあまり声も出ず、賽銭箱にすがりついて泡をふき、提灯を指さす。「あわあわあわわわ」
「ね?居るでしょう…」
「ありゃりゃありゃありゃ」
「ア、ヤ、カ、シ、ですよ。どうやら、あんたについてきたんだ」
 平治はようよう言葉をつくった。
「お、お、俺に?」
 たしかにあの提灯を持ってきたのは平治だが、ついてきてもらったおぼえはない。「あ、あ、アンタさっき、モノノ怪を斬るって言ってたな」平治は全身ガタガタと震えながら、
「ご、後生だから、とっととあいつを、き、き、斬っちまってくれよ!」
「ただの、提灯を、ですかい?」薬売りは平然と提灯を見つめた。
「舌が生えてまなこが飛び出てらぁ、ばけもんだ!」
 薬売りは肩をすくめた。
「あんなものは、ただの、凡なアヤカシ。いくつ斬っても、きりがありませんよ」
「俺としちゃあそのキリを早いとこつけたいんだがよ」
「あいにくと…私が斬るのは、モノノ怪だけでしてね。あのアヤカシはあんたの因縁だし、ちょいとそのへん、なわばりがね…」
 わけのわからない理由でも断られたのは分る。平治はむっとして叫んだ。「てめえ、俺の足元みてやがるな?!ぶざまな文無しだとバカにしやがって!!いいか、町へもどればおらぁいっぱしの鳶、それも棟梁お墨付きの若頭の太平治さまだぞ!おれがちょっと本気だしさえすりゃあな、ちんけな安普請なんか屁でふっとぶ家でも橋でもちょちょい〜っと建ててみせらぁ…」
 ハッタリもなぜか途中から勢いがなくなった。「…ま、いいや」と平治は言った。「ありゃ、アヤカシっていうのか?」
「まあね」
「祟らねぇのか」
「たいがいの場合はね」
 と薬売り。
「人からこぼれた思いを食らって、ほそぼそとやってるんですよ。浮き世を漂い、どこへ行くあてがあるでもなく、ただふわふわと、ね」
「ただ、ふわふわと、か…」
 平治は考え込んだ。「今の俺と似たようなもんだな。薬屋さんよ、斬るのはやめだ。ところで、あんたが探してる、モノノ怪ってのは、どこにいるんだい?」
「さあ」
 薬売りは、提灯を見つめていた。パクパクとさかんに火を吹くが、吹くといっても所詮はローソクの火である。勢いも迫力も無い。
「そいつを今、探してるんですよ」




 平治と薬売りは町へ向かった。
 あの提灯は、後ろをふわふわ、ついてきた。ひとりでに浮いてくるのだから気味がわるいことは悪いが、放っておいてもよさそうである。どこか、健気というか、憐れすらおぼえるほどで、こんな祟り障りもなさそうなものが、なぜ自分についたのだろう、と訝しむものの、平治にわかろうはずもなかった。


 それより、薬売りという男の挙動が気になった。なにしろ真っ直ぐ町へ入って行くのである。平治の住む町である。祟りが出るとなればおだやかではない。
「よう、よう、薬屋さんよう、どこまで行くんだね」
 薬売りは立ち止まった。
 いつのまにか、手にやじろべえを乗せている。打ち伸ばした鉄のように薄い玩具で、磁器のようにてらてらと光っていた。露花のいろをつけた、とんがった爪の指先で、ゆらゆらと揺れている。
 蝶の羽に似た「うで」がこちらへ傾くと、継ぎ目でかちゃりと音がして、端に下がった金色の小さな鈴がちりんと鳴った。かなり傾いても、落ちない。
「そいつもアヤカシかい」と平治は訊いた。
「天秤…ですよ。モノノ怪との距離をはかるんです」
「天秤で距離?わかんねぇな、だいいちそんなちっこい天秤で何が量れる」
「人ならざるモノは、あるかなきかの重さで。風より軽い。だから、秤もこれくらいで、丁度佳いのです…」
「はぁ、そんなもんかね」
「貴方の提灯だって、宙を舞ってるじゃありませんか」
「まぁ、たしかにな」
「おっと、世間話が過ぎました。…水の取り口まで、案内をたのめますかね」
「ああ、構わねぇよ」
 平治はややほっとした。町で使う水の取り口は川のほとりにあり、川は町から少し離れる。
「町を横切るぜ。橋を渡って向こうだ」


 町を二分して流れる用水路は、むろん川から水を引いているが、さっぱ舟で入れるほど深い。長い時間をかけて、代々の住人が苦労しながら少しづつ拡げたものだ。両岸に、桜と柳の並木を植え、見かけも用途も川そのものと遜色ない出来で、住人たちの自慢である。


 そのほぼ中央に、短いながら立派な欄干をそなえた橋がかかっていた。中の橋と平治たちは呼んでいた。
 二人がその近くまで来ると、なにやら橋の上に白くもやもやしたものが、生きもののようにうごめいている。
 平治は目をこらし、両手でぐりぐりと目をこすり、ぱちぱちと幾度もまばたきして見た。
 それでも、目に映るものが、本当にそこにいるとは信じがたかった。
「お───おい、ありゃぁ…ミミズか…?」
 見まちがいじゃない。たしかに白い太い何かがのたくっている。正確に言えば橋の少し上の空、つまり、宙に浮かんでいるのだった。
 薬売りは顔をしかめた。
蚯蚓、はひどい。あちらも神の眷属にはちがいありませんが…」
 平治の返事は悲鳴になった。
「へ、へ、蛇だ、大蛇だぁーっ!!」
「違いますよ。あれは蛟。み、ず、ち。です」
「おい薬屋!出たぞ出たぞ、さあ斬っとくれっ」
「せっかちな兄さんだね」薬売りは平治の口まねで答えた。「名の知れた町衆なのに、橋の名前をご存じないか?あの橋は、瑞乳橋(みずちばし)といって、たもとに水神様が奉ってある。あの蛟は、水神ですよ。龍の眷属だ」
  薬売りは落ち着き払い、まあ良く御覧なさい、と言う。いわれて見ると、胴体にちっぽけな足が4本生えている。姿も蛇だとばかり思い込んでいたが、どちらかといえば胴の延びたヤモリにちかい。


 かといって、恐ろしげである事に変りはない。頭にも尾の先にも瘤のような角があり、腹の鱗はすべて刺のように逆立っている。巻きつかれても殴られても命はなかろう。ぬめぬめとした白い肌は光を逸らして七色に変化する。瞳はある瞬間に赤く、次の瞬間には緑に染まって、ぎらぎらと輝く。そして巨大な口と、口からはみでるほどの、白い牙。
(あれを神様っていわれても)ヤマタノオロチなんかにくらべてもずっと剣呑な気がする。
「じゃ、あれもモノノ怪じゃあねぇってのか」
「いえ、それがちと、まだ…」
「なんだはっきり言え、オイッ、アチッ」
 なんだか背中が焚き火にあたったように熱く、話を終えないうちに平治は振り返り、そして仰天した。
 提灯が、至く近くで、ぱくりと開いた口から、なんと火柱を噴き上げていたのだ。
「ウアァーッ」平治はのけぞるように身を離した。  
 と、火柱のなかから、ひとつの火の玉が飛び出すと、頭上を2回ばかり巡り、
「キェーエッ」
 と叫んだ。
 見る間にその姿には、翼が生え、尾長のような見事な羽が生え…
 鋭い嘴と爪、らんらんと燃えさかる瞳をもった鳳(おおとり)になった。神輿のてっぺんにいる、金の鳥だ。
「なんだありゃあっ」平治はおろおろするばかり。
火の鳥、ですかね。巷の噂じゃ不老不死とか」
「ちょ、提灯から出たぞッ」
「そのようで」
「提灯はモノノ怪じゃねーって言ったろッ」
「そのとおり」
 色白の面が、真っ赤に火照ってみえるほどだというのに、薬売りは涼しげな顔を崩さない。
「あれも、モノノ怪じゃありません」
「……!!!」
 鳳と蛟は、上空で睨みあった。
 鳳は蛟の大きさの半分もないが、からだじゅうから渦巻く炎で相手を威嚇した。
 火のついた長い尾を引いてきらきらと宙を飛び交う鳳は、じりじりと間合いを詰めていたが、やがてトキの声をあげると、蛟めがけて突っ込んだ。
 蛟は迎え討つといわんばかりに太い尾をうねらせ、巨大な口をかあっと開いた。鳳を噛み砕こうと、顎を打ち合わせるたびに、つららのような牙のあいだから、真っ赤な口腔とふたまたの舌がのぞいた。
 鳳はその牙をひらりひらりとかわし、高く舞いあがると、蛟の頭上から火の翼を打ち下ろした。無数の火の粉が、流れ星のように蛟を撃ち、下界へも降り注ぐ。ものすごい熱が空気を灼いた。きつく顔を覆おうと、防げるものではない。


「町が燃えちまうよぅ───薬売り、なんとかしてくれぇ!!」


 薬売りと平治のあいだには、あの天秤が、幾つも幾つも列をなしていた。がちゃがちゃと響きあい、鈴がいっせいにリリリと鳴った。男が何をするつもりか皆目見当もつかぬまま、平治は薬売りにすがった。


 しかし当の派手な男は、燃えさかる空気のなかで、その白い顔の隈取がいっそう妖しげに微笑むばかり。
「おや、気になりますか。貴方を悪く言った、町の人たちのことが…」
「そ、そりゃぁな、俺は…」


 平治の脳裏に浮んだのは、乳飲み子のころから世話になった、大工の棟梁の顔であった。五つのころから手取り足取り、平治の筋の良さをみとめ、何かと目をかけてくれた。
 だが。ある日、平治が自分で組んだ足場から、平治自身がおちて足を折った。大工生命が危ういときに、棟梁は慰めの言葉ひとつかけず、事故を起こした平治をきびしく叱った。
 落ちたのは夕げの酒がたまたま残っていたからで、足場のせいじゃない。いくら話しても分ってもらえず、ついに大喧嘩になった。棟梁が「てめえは首だ!」と叫ぶ声が、いたたまれぬ思いに追い討ちをかけた。
 傷がぶじ癒えても、平治は現場に戻れなかった。やけになって呑みほうける日々がつづいた。怪我をする少しまえに所帯をもち、女房の腹にはやや子もいた。仕事もこれから活躍のピークという時だった。それでも平治は立ち直れずにいた。


(そういや今夜戻らなかったら、アイツ実家へ帰るって怒鳴ってたなぁ…)
 なじる女房の顔が浮かんで平治はハッと我にかえり、語気あらく叫んだ。「町にゃ、かかあも棟梁もいる!モノノ怪だろうがアヤカシだろうが、町を焼くなんて絶対に許せネェ!!」


「じゃ、貴方になんとかしてもらいましょう」
「へ?」
「あちらは、決着がついたようですよ」
 上空では鳳が、蛟の太い尾を避けようとして気をとられ、一瞬、風をつかみそこねた。
 蛟は見逃さず、失速した鳳の腹に喰らいついた。
 鳳がたまりかねたように高く鳴く。
 しかし、蛟がその牙を解くことはなかった。そのまま鳳をばくりと、ひと呑みにのみ込んでしまった。
 そのおかげで、火の粉は止んだ。
 平治はあぜんとして見上げていた。
 ふと傍らの男を見る。
「薬売り…?」
 薬売りは、燃えさかる棍棒のようなものを左手に掲げていた。
 いや、火のようにみえたものは、深く艶の無い塗色の上で無数にきらめく、ちりばめられた石の輝きだった。


 それは合口くらいの大きさの、鞘におさまった一振りの刀であった。柄の飾りは狛犬に似て、吼えるようにカッと口を開らき、一房の鬣(たてがみ)を風に逆立てていた。
(あれで、斬るのか?)
 平治の胸に希望が灯った。
『ヘ…イ…ジ…』
 空から何かに呼ばれて、平治はぞっとしながら振り仰いだ。
 あのオロチ、じゃなかった、蛟が、すぐそばまで来ていた。
『ヘイジ…』
 はっきりと彼の名を発した。
 まぢかに迫った蛟は、真っ赤に濡れた両の眼を、らんらんと輝かせた。体がすくんで動けない。
『ヘイジ…町ノ…タメニナリタイ…ナラ…オ前ノ命、寄越セ…』
「い…?!」
『オ前ヲ喰ライ、我ハ天ヘ昇ル…オ前ノ命、我ニ、寄越セ…』
 頭はガンガンと痺れ、背骨が縮むようだった。「なんで…なんで、俺が」
「貴方は言いましたよね、町を焼くなど許せない、と…」
 背後から、薬売りが声をかけた。
 体を動かせない平治は焦りと精一杯の怒りをこめて怒鳴った。
「薬屋ッ!?て、てめえ、どうゆう…」
「つもり、ですか?」
 薬売りの言葉は、喉に当たる刃のようにひやりとした。
「言ったでしょう…私には私の、用事が、あるんですよ。貴方や、貴方の町のことは、私は知らぬ」
 平治はうめいた。「どういうことだ?!」
「まあ、めぐり合わせも縁のうち」と、薬売り。
「ここはひとつ、蛟について、私が知るかぎりのことを申しあげておきましょう。蛟は千年で龍となり、天に昇るといわれますがね、とんでもない。人間の精気を取り込めば、ずっと早く龍になれるんですよ…
 この橋の蛟は、ずっと貴方に眼をつけていたんですよ。町衆の若者のなかでも、とびきり活きがよく、技芸にも秀で、その精気を持て余して捨ててしまった、貴方に…ね」
 やっと平治は理解した。モノノ怪はこの薬屋を使って、俺を呼び寄せたんだ。
「畜生!どうとでもなれ!」
 怒った勢いだろうか、ふいに体が動いた。平治は袖から利き腕を抜いて、ぐいと蛟に突き出した。
「これが俺の命だ!全部やる!くれてやるよ!」
 そして薬売りをきっと睨みつけた。
「ハナっから妖怪の手下たあ、とんだ食わせものだぜ、薬売り!モノノ怪だの何だのと、マンマとのせられて、ノコノコ来ちまったんだけが、悔しくってたまらねェや!」
「だが…」
 平治は蛟を見据えて、つぶやいた。
「俺でいいんなら、くれてやるさ。いちおう神さまに見込まれたってことなら。棟梁の顔も立つってもんだ」
 平治は眼を閉じた。
 蛟が大きく口を開け、そして───




 平治は目が醒めた。
 久しぶりに、ぐっすり眠った気がした。体はずしりと重いが、このところ、まともに動かしていなかったからに違いなかった。
 心配そうな女房の顔が、そばからのぞき込んでいた。
「あんた───生きてるの?」
「生きてるも、なにも───」
 あれ?やっぱり俺、橋にいたんだ。
「生き返った、みてえな心情だよ」
 平治はそばの欄干につかまりながらぎこちなく体を起した。女房が支え、首根っこをもみほぐすのにまかせる。固いところで身を横たえていたせいでカチカチだった。
「心配したのよ」女房が涙声で言った。「ほんとに」
 朝だった。スズメがさえずり、遠くで煮炊きの匂いがした。足下で川がとぷとぷと流れていた。かさり、と何かが足にあたった。見ると、提灯である。べつにおかしなところはない。
「これ、お前がもってきたのか」
「なに言ってんのよ、あんたがゆうべ、血相変えて取りに来たんじゃない。あんまり尋常じゃないから、あたし…」
 また泣き出す女房を平治はあわててなだめた。
「すまん、もうよせ、泣くな。腹の子にさわる」
「あんたが優しいこと言うなんて」とまた泣く。さじを投げて、平治は何も言わずに女房の背中をさすってやった。
(ぜんぶ夢だったのか…にしても、妙にはっきり覚えてやがらあ)
 さすりながら、欄干から下の水路を覗き込むと、みぎわにはりつくようにして、たしかに小さな鳥居があった。永いこと、忘れられていたのだ。なにせ地元民の平治が、橋の名も由来も知らなかったくらいである。社は見る影もなかった。
 こつん、と独楽が転がるような音がして、平治と女房は同時に後ろを振りかえった。
「あれ?」さきに声をあげたのは女房である。膝をかがめ、橋げたに転がっていたものを拾う。
「神棚にあげといた鷽さま」
「天神の?うちのか?」
 女房はうなずいた。「あんたが呑んだくれるようになってから、あたしが自分で願かけしたのよ。ぜんぶ嘘になりますようにって」(木彫りの鷽に、凶事が「嘘になれ」と願掛けする。)
 その鷽はみょうにすすけていて、ぬぐっても落ちなかった。まるで焚き火にでもかざしたみたいだ。
 はっと平治は思い返した。あのとき蛟と戦った鳳は、天神の守りだったのか。女房の願掛けの。
 ヘンな提灯は、俺を心配した、かかあの化けたアヤカシってとこか。
「うそから出たまこと…ってやつか?」
 ふと、薬売りについた嘘を平治は思い出した。




 そのすぐあとのこと。
 あたり一帯を、地震が襲った。鉄砲水が起きて、山が崩れた。被害は宿場一帯を襲ったが、平治の町が一番ひどかった。
 平治一家は難を逃れた。平治は町の若衆として、朝から晩まで復旧に奔走し、町の復興に力を尽くした。休めない日々が年を継いで続いても、こう言ってしまっては何だが、することがあるだけましと考えるようにして、平治は黙って堪えた。
 大工の棟梁も運があった。男たちは私怨を捨てて協力しあい、町が落ちつきを取り戻すころには、以前の親子のような仲に戻っていた。もっとも、あのときどちらが悪かったのか、という話になると、師匠と弟子は必ず大ゲンカになるのだが…。
 平治は夢の話を、多くの人に語った。
 あの地震は蛟が龍神となった験(しるし)だ、と平治は信じた。ほんとうに鳥居があったので、人々も平治の話を信じた。龍神は恐ろしいが、潤いとめぐみをもたらす神である。瑞乳橋は名を取り戻し、水神は奉られることとなった。鳥居を川から引きあげ、天神様の境内に新たな社を建てたのも、平治であった。
 ただ、薬売りの話だけは女房にもしなかった。たしかにモノノ怪は斬ったようだ。平治は命を失わなかった。けど、あいつはちょっと、腹黒い。




トリビア
世間知らずの平治が賭場で借金達磨にならずにすんだのは、奥さんのみわの実家が宿場の有力者と親戚筋で、そこから賭場に圧力がかかり、ヤツに賭け事をやらせるなと言い渡してあったからです。良かったねぇ平治。