その三 蛟


╋╋・‥… 蛟 …‥・╋╋





  蘆葉達磨も
  芦の葉なくては渡れまい
  ───戯れ唄




 シャンシャンシャン…


 鳴りものを奏でる調子が、高く低く、こだまする。笛の音、鉦鼓の音は、追おうとすると遠く、それでいてどこにいても耳に届き、離れずにつきまとう。
 まるで、音を探しているようだ、と、薬売りは思う。つかめそうでいて、決してつかめないもの。音は、かたちに残らない。
 探しているものも、そうしたものであった。


 カタ、カタ、カタ、カタ


 薬箱からは、間違いようの無い音が聞こえてくる。
 薬売りは背中の荷をゆすって負いなおした。
 そのまま、市の雑踏に紛れて行く。




 宿場の市にはあらゆるものが並ぶ。わらじに足袋、蓑傘、懐中、下着に枕。手弁当に土産物。
「ちご餅あるよ、鯖すしあるよ」
「飛脚の用はないか、人足ないか」
「富山の薬、医者いらずの薬」
「道中護り、伊勢のお札はいらんかね」
 街道筋にはさまざまなものが集まる。丹後ちりめん、若狭めのうといった、なかなか手の届かない高級品も並ぶ。宿場には近隣の里の豪農や旧家も買出しに来る。京に集まる品ならここでたいがい手に入るのだ。しぜん、人々の眼も肥える。質の良い品が店先を飾り、辻楽や物売りも大勢出て、市は活気にあふれていた。




 だいぶ歩いたころのこと。
 薬売りの足が、一軒の店ですっと止まった。
 宿場町の住人がきりもりする、母屋入りの店が列ぶ中心街を、すでに通り抜けていた。
 周辺の郷から来る人々が、自由に売る露店の界隈である。賑やかさは変りない。
 傍目には、薬売りの姿はいかにも品定めをするようであった。




「気に入ったかい、兄さん?よっくご覧になって下さいよ!」
 威勢のよい呼び込みが、耳を貫いた。
 声をかけたのは、その店の主らしい。小柄でがっちりした、いかにも農家のおかみさんである。
 一畳ほどの彼女の店には、ぎっしりと人形が並んでいた。
「評判いいんだよ」
 白塗りの土人形は、いかにも伏見の作風であった。仏に干支に鈴、招き猫に饅頭食い、天神人形。
 色鮮やかで美しい人形が居並ぶなかに、ひところだけ、紅をさしただけの、素朴な木彫りがあった。
 薬売りが足を止めたのは、その前である。




「通だねえ旦那、宿場名物の、鷽替え人形さ。近くの町に天神さまをおまつりしててね、縁日じゃなくてもよく売れるんで、年がら年中、置いてるってわけ。ま、旅の人用だね。ちゃんとお祓いもしてあるんだよ」
 薬売りは、木彫りのひとつを手に取った。
「これは、おかみさんが作るんで」
「いんやいや、ここら一帯の、鳶の座(大工組合)がこしらえる決まりでね。地元の店に卸すわけ。あんたが目をつけたそれは───たしか、ねえ、これ作ったのって平治じゃなかったかい」
 おかみは、隣の店の親爺に声をかけた。
 親爺は嫌そうに口を曲げて、
「ああ、奴が、まっとうなころのな。まだ下げてねえのか」
「余計なことお言いでないよ、お客の前で」
 そう言うと、おかみは客に肩をすくめて見せた。
「平治っていうのは腕のいい鳶なんだよ。旦那が見てのとおり、この鷽さまだって、よく出来てるだろ?───足をヤッちまってね。仕事を投げちまったのさ。周りが世話するほど、当人はへそ曲げるって寸法でね。───あれま。あたしまで余計なこと」
「平治さんとやらが作ったこれを、いただきましょう」
 薬売りは木彫りに眼を落としたまま言った。





  ○o。○o。.。oo。.。o。.。





 薬売りは天神の社で、平治その人と出会う。
 平治はそうと知らず、アヤカシを呼び込んでいた。目に見えぬアヤカシが、つぎつぎと姿を得て、彼の周りに顕れた。お化け提灯、その変わり身である鳳、そして、蛟。
 それはとりもなおさず、モノノ怪と化したヒトの、ごくありふれたさまなのであった。
 なかでも、蛟はなかなかの大物である。




 薬売りは天秤を操り、平治と蛟を引き合わせた。
 平治は、蛟の脅しに怒り、自分の理(ことわり)───本心を吐露した。荒れてはいても、生まれた町や共にいる人への愛着は変らずに持ちつづけていた。どころか、いっそう強くなっていたのである。
 それに応えて、蛟もまた自身の理を明かした。
 平治を取り込んで、龍となり、天へ昇る、力を得ること。




 だが、しかし。




「平治さんの真と理を得て、あなたが顕れた。蛟。」
 薬売りは退魔の剣を構え、宙に浮かぶ蛟と向きあった。足元には平治が気を失ない、倒れている。




「あなたは、水底、いや、町の奥底深くに沈み込んだ、人々の思いの、影。町と町に住む人を愛し守りたいという、かつてこの町を築いた人たちの、積年の思いが募った、影。それがあなただ。町を永く見守った、見守るのみの、神───」
 薬売りは平治の身体に目を移し、言った。
「この男の行き場の無い情念が、眠っていたあなたを呼び醒ました。モノノ怪と化した、蛟よ」
 退魔の剣の、柄の獅子頭アゴを打ちあわせ、かちんと音をたてた。
「だがあなたは目覚めた今も、まだ影の姿、蛟のままだ。なぜ龍とならぬ」
『我ハ、平治ニ依リテ、コノ姿ヲ得タ。ダガ、マダ、天ニ昇ルチカラハナイ』
 蛟はゆるゆると宙を舞った。
『平治ヲ喰ラワヌカギリ、我ニ、チカラハナイ』
「なぜ、今、なのだ、蛟よ。なぜ、平治さんを選んだ」
『平治ハ強イ。本当ニ強イ魂ガ、我ヲ、眠リカラ醒マシタ。我ニトッテハ、今ガ、ソノ時』




「ならばなぜ、まだここにいるのか」




 薬売りは、凛として叫んだ。
「あなたは平治と因縁を結び、姿を得て顕れた。なぜ龍とならず、蛟のままで俺と合間見えているのだ?」




 戸惑うように、蛟は肢体をくねらせた。
『マダ、平治ヲ、喰ラワヌカラダ』
「違う。たしかに、あなたを呼び覚ましたのは、平治の恨みの心だ。けれど、彼の本音を聞いただろう。町への思いは、あなたと同じだ。あんたがたは、もうほとんどひとつなんだ。だのに、なぜ、ふたつのままなんだ、蛟よ。考えてみろ、ほんとうにもう一方を必要としているのか───」




「あなたは、もうじゅうぶんに昇れるのだ、蛟。とっくの昔に、その力は備わっていたんだ」
 蛟の両眼が赤から緑、緑から赤へとめまぐるしく変った。薬売りの言う事が信じられないようであった。
『我、ハ───』
「人々を見守り、永い時を過ごされた水神よ。あなたの魂はすでに、龍であったのだ」




 蛟は鼻から凄まじい吐息を噴くと、天に向かい、高らかに吼えた。歓喜の雄叫びであった。
 蝉が殻を破るように、蛟の背中が二つに割れ、なかからちっぽけな───手のひらほどの大きさしかない、それでも頭に立派な角を備えた龍が、するりと抜け出てきた。
 天に昇るさまはあっけなかった。遥か彼方で雷雲がひとつ、小さな稲妻をきらめかせて、龍は姿を消した。





  ○o。○o。.。oo。.。o。.。





 薬売りは退魔の剣を、鞘に収めた。
 柄にむすんだ根付の鈴が、りいん、と鳴った。獅子頭は口を閉ざし、眠るように穏やかな顔つきになっていた。
 薬売りは、物思いに沈むように、柄頭をじっと見つめていた。




 龍はこれからまた千年をかけて、大きくなっていくのであろう。




 見守るだけの神とはいえ、地鎮の神が去ったなら、残された土地は平穏とはいかぬ。まして蛟が龍となる時は、かならず天災をともなう、という。
 もしも蛟を斬らなければ───それは、平治と蛟との因縁を断たずにおくという意味であったが───もしも、平治があのまま、水神に取り込まれていたならば、土地神はむしろ、守護の力を増したのではないか?
 なぜなら、平治と蛟をむすんだのは恨みというより、町への愛着であったから。
 薬売りは、それが余計な考えであると承知していた。
 起こらなかった事、これから起きる事を、どんなに憂いても、変えることは出来ぬ。
 町のためならどうなってもいいと平治は言った。
 モノノ怪は斬らねばならぬ。
 俺はなぜ、ここにいるのだろう?




『オマエハ斬リニ来タ。モノノ武ヨ、オマエハ為スベキ事ヲ為シタ』
 蛟が遠くで、囁いた。




 薬売りはつぶやいた。「でも、俺は───」





  ○o。○o。.。oo。.。o。.。





「あれえ、旦那これ」開口一番、露店のおかみが言った。
「縁起ものだからねえ。かんべんしとくれよ…」
 何か勘違いしたらしい。
「いえ、いえ」
 そういって、あらためて薬売りは、薬包みと一緒に木彫りの鷽を、おかみの手に再び握らせた。「こいつを、あんたのとこの天神さまに、納めといてくれませんか。むろん、鷽さまだけでけっこうですよ」
 包みをかさこそと開けて、おかみの顔がぱっと明るくなった。
「…べつに、かまわないけど、自分でいったらいいのに、こんな」
「すぐ発たないといけないんで。じゃ、頼んましたぜ」
 頭を軽く下げて、立ち去る薬売りの背に、おかみはつい尋ねた。
「ね、どんな願いをかけたんだい?」
 薬売りは振り向いた。
 ほんの一瞬、かなしそうな笑顔がよぎった。
「嘘がウソであるように…ですよ」




 叶った願い、叶わなかった願いを、薬売りは知るだろう。いつか。いつも、あとで、あとで。









 海を渡った達磨さまとて
 芦の葉なくては渡れまい…