ハイパーは誰でもなく、また十万人


今年の9月は「今更月間」と題しまして「答はないよォ〜」なネタをとりあげます。
とはいえうちのサイトは今後もモノノ怪一色、どのみち末代までも今更。(月間イミねぇ)




さて、ハイパーネタです。*1
金のイレズミを全身にまとった謎の男は、薬売り本人(の外見の変化した姿)でしょうか。
それとも別人(あるいは別人が憑依して外見が変化した姿)でしょうか?



【正論】詳しく描写されてないので、わからない。薬売り本人が関与していることは間違いないと思われる。



【反論】描写はある、とする見方
二人一役?的な演出(ひとつの名称の役柄を、二人で演じわける見せ方)がある。
特に、変身シーンでは必ず、ひとつの画面に二人が映り込んでいる。
故に、異なる人物が二人いるのは確かとする。



【返論】映像表現である、とする見方
外見とは変更可能なものである、という前提がある。
ほとんどの人間は、ある人間がべつの人間に「なりすます」ことができる、と経験的に知っている。
ハイパーに「なりすました」薬売りの外見と、薬売り本来の外見を、同一画面に貼りこむことは、技術的に可能である。
故に、画/映像で二人が同時に映っていても、二人が別人である確証とはならない。


多重露出などのテクニックで、ひとつの画面に複数の同一人物を貼り込むことは、映画創世期からさかんに行われている。もともとは絵画の表現方法であり、写真でも行われている。


ただし、外見的に異なる二人の人間を同一画面に並置しただけで、その画/映像のみを示されたとき、他に解説なしで二人が同一人物であると説明できるような画/映像表現は、ない。


過去のアート作品において、映画の多重露出、絵巻の異時同図法などが効果的に使われたのは、ほとんどの場合、一見して同一とわかる人物を、複数配置する方法である。
二人一役的な演出は、物語のプロットには数多く用いられる。(手塚治虫『ショーグン』成田美名子『CIPHER』など)
また、演劇やドラマの手法としての「二人一役」も知られるが(『隣人13号』、ク・ナウカなど)アニメでは滅多に用いられない。
モノノ怪』を例にとっても、成功しても失敗しても同じように混乱を招くようだ。『海坊主』などの演出が薬売りの設定に絡むのではないかとの推測が生じるのは無理もない。



【提起】
ひとつの画面に、二人の人間の姿を並置して見せる、という表現は、それ自体のみでは、二人の関係性が存在するかもしれない、ということだけを暗示する。このとき、二人の関係性は見る側の想像に託される。


…ハナシが妙なところで終わってしまったので、個人的理由による見解を、以下、参考までに。




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【私の場合−なぜ別人では「ない」と考えたのか−】
薬売りって、何でしょうね(おい)。つきつめると、存在がいなくなるというか。でもあえて「存在する」としたら1人だけだと思う。理由は以下に。
各話の解も、小説の基本設定も、別人設定無しで統一しています。というか、解釈では別人設定を入れると逆に扱いづらくなるし、いろいろ、無理。




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その1  先入観があった

テリー・ブルックス『魔法の王国売ります!』

byオンライン書店ビーケーワン
似たような設定の物語は他にもありますが、私の場合は、こちらの物語の構造を、まるごと薬売りとハイパーの関係に当てはめて見て、ああゆうもんかなと考えていた。
(ネタバレにつき、一応反転表示。はてなキーワードにリンクした語句だけ見えています。)
 
(上掲本より引用)
『かれはこの混沌と混乱のもやを通して、ある恐ろしい事実に気づいた。パラディンはもはや幽霊ではない。実物なのだ!
かれ(王)はメダルが胸の上で、銀の炎をあげて燃えるのを感じた。また氷のように冷たくなり、また炎となり、それからどちらでもないものになるのを感じた。それから、その光は<心臓>を貫いて、パラディンの待つところへとのびた。
光とともに自分が引き寄せられるのがわかった。
一瞬にして、驚くべき啓示のように、かれは悟った。ひとつ、たずねたことのない問い───ここにいるだれも口にしたことのない問いがあった。パラディンとはだれか? 今、それがかれにはわかった。
かれ自身なのだ。
それを知るために必要だったのは、真に重大な時にみずからをこの魔法の地にゆだね、引き渡すことだった。』
(王である普通の人間+古代の魔力=「メダルのパラディン」は優れた生体兵器という扱いで、別人格や人情味は全くない。そのため王は力を行使するたびに、非人間的な感覚で悩む。)

先入観に左右される事は多いです。




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その2  「しぐさの民俗学」から発展して

しぐさの民俗学―呪術的世界と心性

しぐさの民俗学―呪術的世界と心性



しぐさ(あるパターンを持った一連の行為)には意味があり、現在もなお、私たちの無意識に深く結びついているようです。それらは、異世界への扉をひらく、と信じられています。
生まれては死ぬ人間の肉体は、この世とあの世の両方にまたがる存在なので、異世界との境界になりうる、と考えられたのです。しぐさを介して、肉体は異世界へつながります。



おまじないでも遊びでも、カラダで行うある種のしぐさには、
 ここ から あちら へ
という、≪中継≫の機能が、必ず含まれています。



付属する物のいらない単純なしぐさだけでなく、道具をともなう化粧や隈取、決まった装束をまとうことなども、防寒や日除けなど純粋な実用目的をのぞくと、しぐさの延長として捉えることができます。(さらに、演じる、踊る、作るといった表現までひろげられますが…とりあえずおいといて。)
たとえば隈取なら、ほどこす(描く)行為で、個人と別の「なにものか」をつなぐわけです。



中継。では、そこを「何」が通るのでしょうか。情報でしょう。もっといえば、まとまった情報の塊、ということになるでしょうか。たとえば隈取なら、役柄が情報です。股のぞきの遊びなら、股を覗いて見えた時の景色が、そのまま情報として受けとめられるわけです。



隈取は、目で「見える」ものですが、ぬぐったら消えてしまって、見えなくなりますね。
股のあいだから、さかさに覗いて「見えた」景色は、ふつうの姿勢に戻れば、当然見えません。
「隈取を、描いた世界と、消した世界」が、隈取の示す「こちら と あちら」なのです。すぐそばにありながら、しかし、片方が在るとき、もう一方は見えません。



ところで退魔の剣は、モノノ怪を「斬る」ものですが、普段は鞘から抜くことができません。中はおそらく空洞で、真空だから気圧で抜けないオチもいいけど、「目に見えない、形が無い」という表現でしょう。
モノノ怪はふだん形のない、目に見えないモノです。それを斬る道具としての退魔の剣もまた、普段は見えない。



薬売りの口上に「剣があり、剣を掴む手がある」とあるとおり、剣を使うのはヒト。
そして「ヒトは世にあり、アヤカシは宙にあり」。刀が見えない退魔の剣は「ヒト」の「世」のモノですが、刀が形を持つときは「アヤカシ」の次元に移るといえそうです。
すると、剣を握るヒトもまた、異次元の存在であると考えられます。(過去スレでみた鏡の解釈が思い出されます。)
そのときその「ヒト」の体は、普段の「ヒトの世」では、形もなく、目にも見えない。



しかしアニメでは…折角見えるようになった刀を振るう人が、見えない(笑)では困りますね。では、見えるあのハイパーは何か。
あれは「薬売りの男」というひとりの人を、
(境界としての機能を備えた)ひとつのカラダ
  │
  ├>「ヒトの世」用
  └>「アヤカシの世」用
に分けて捉え、その片方に、もう一方とは異なるラベル(外見)を与えたもの。
そして、
「ヒトの世」→「アヤカシの世」への移行をあらわす表現として、キモノと隈取の紋様が移動する。
と解釈できるわけです。



ですから、ハイパーが出てきた時に、薬売りの隈取他が「消える」わけです。紋様が片方の身体にしか現れないことで、ふだんは同時に見えないはずの「こちら と あちら」を、ひとつづきの映像であらわしているのです。
二人が同時に見れるシーンも、手のチラ見せだったりカットバックを多用して、ありきたりの並置を避け、異なる次元にあることを強調しています。



隈取やキモノの模様が薬売りの本体…という解釈は、つまり、アレが薬売りの魂である(あるいは薬売りのパーソナルデータである)ということでしょう。
しかしアレが移動するだけなら、薬売りはやっぱり、ひとりしかいない、と思うわけです。
あくまでも、私の見方であり、後付けの解釈…ですぜ。



じゃ、「見えないカラダ」は、「見えない」あいだ、何をしているの…?
いや、「そんなカラダはない!」って言ってるんですYO。



隈取は、スッピンにほどこすと別人に「繋がり」ますが、薬売りの場合は、隈取込みでスッピンです。じゃあスッピン状態が存在しないのかというと、そうではない。
視聴者が見ている画面には、隈取が見えますが、おそらく劇中人物には、見えていない。
デスノでいうところの寿命みたいなもんで、視聴者に神の目が与えられているわけです。



むろん「見えないカラダ」がどこかには「在る」と考えてもいいんです。ともかく、ハイパーという器が、薬売りのタマシイをのっけて働いていることに、変りないんですから。
『海坊主』ラストはあたかも二人の役者がひとりの役を演じているかのようです。たしかにこの辺りにはカントクの裏設定が見え隠れしているのかもしれません。




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その3  そのカントクが、変身のアイデアを「やろうかやるまいか悩んで」いたそうだから
fromキャラベリーズ「百花繚乱怪談絵巻」インタビュー記事より


どうしようか悩んでいた、ということは、ぶっちゃけやれなくても何とかなった(と少なくとも当時当初はちょっと考えた)ということになるだろう。



『怪・化猫』『モノノ怪』いずれも、変身バトルはストーリー的には(少なくとも今までのところ)まったく寄与していません。
無論、変身バトルがあったからこその今の拡がりだとは思う。
私も自分の二次では(とても描けず)まるっと削ぎ落としてしまいました。でも、削ごうと思えば削げるわけです。『座敷』なんかは丸削ぎ(笑)なわけです。ただし下敷きあっての削ぎ落としですが。
たとえ、どんなにやったほうがいいと頭で分かっていたとしても、どうしても切らざるを得ないハメになれば切れる、と思うわけです。



とはいえ「裏事情がこんなだから、こんな感じの“動”のキャラがいたらいいなぁ」とかカントクが最初からぼんやり考えていなかったとは、決して言い切れない…!!このあたり、MGMの伝説、サルバーグの手腕と同じ匂いを感じたり感じなかったり(をい)や、ぜひ曾孫見るまで長生きして、売れる古典をばんばんつくって下さい。と願かけしておく。




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【最終…結論?】
ハイパーは薬売り自身である<───>別人である
それは、
星の王子さまのヒツジが、花を食った<───>食わない
の両極のあいだを無限に想像するのと同じ。




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【エントリータイトルについて】
イタリア人作家ルイジ・ピランデルロの『ひとりは誰でもなく、また十万人』に、

生には完結はない。生に名はない


とあります。(河出書房新社、1972、P232)


物語がこれからも生きつづけるなら、薬売りの男に名がないのは当然。 
こんな〆で、長文を終わらせていただきます。ありがとうございました。



蛇足:上掲本は絶版ですが図書館にはあるかも。奥さんに言われたなにげない一言が、旦那の人生を悲惨?に変える…といった形而上的欝な文学作品で、のっぺら的トラウマが怖いのでおすすめしませんが、エッシャーとかシュルレアリスム好きでめんどくさい文章OKなヒトなら面白いかも。


ハイパーが十万人くらいいたらいいなー、という願いを込めてつけました。もちろん、1人の心にハイパー1人いる換算で、のべ十万人。わ〜〜〜
薬売りは誰でもなく…でもよかったか。でもハイパーで。



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 そう、たくさんの自分がある。そのうちのひとつの自分の行為の外に、その自分とは無関係かほとんど関係のないたくさんの自分がある。そればかりか、そのひとつの自分自体が、つまりある瞬間に私たちが自分に対して付与し、その瞬間にその行為をなしたその現実が、そのすぐあとでまったく消滅してしまうことだってよくある。
…つまり存在というものは必然的に形というものを通じて行動し、その形というものは存在がみずから形成する外見のことであり、その外見に私たちは現実の価値を与える。それは、当然、ある形、ある行為におけるその存在が、われわれの目に写るところにしたがって変化する価値なのである。
…あるひとつの現実とは、私たちに与えられたものでもなければ、もともと存在するものでもなく、それは、もし私たちが存在しようとするならば、私たちがみずから作り出さねばならぬもの…
…みんなにとって同じひとつの現実、永遠に同じひとつの現実というようなものはけっしてありえず、現実とは絶えず無限に変貌するものなのだ。
今日現在の現実が、唯一の真実のものであると錯覚する作用は、一方では私たちをささえるものであるとともに、一方では私たちを果てしない虚空の中に投げ込むものである…
そして、人生においては結論がない。結論を下すことは出来ない。もし結論が下りるとすれば、その時は人生が終わっている。
───『ひとりは誰でもなく、また十万人』より抜粋


次はようやく蟲…ではなく、たぶん小林かいちのまとめ記事になります。

*1:ハイパー:『怪:化猫』『モノノ怪』で、退魔の剣が抜けたときに出てくる、薬売りの男の変身後の姿。表記がシンプルで覚えるのも変換も楽というただそれだけの理由で、ハイパーにて統一。この呼び名が嫌な人いたらすみません