その1
雨の日には濡れて 晴れた日には乾いて
寒い日には震えてるのが当たり前だろう
次の日には忘れて 風の日には飛ぼうとしてみる
そんなもんさ
───<風の日>
╋╋・‥… 序 …‥・╋╋
薬売りは、田舎の畑地のあいだを縫う寂しい街道にいた。 大粒の雨が降っていた。 足元には、ひなびた風体の地蔵がひとつ。 地蔵は番傘をさしていた。
薬売りは古びた番傘を手に取った。 「お借りしますよ」と彼は言った。
╋╋・‥… 1 …‥・╋╋
ガタガタガタッ、ガタガタガタッ… ゴトゴトゴトゴト、ゴトゴト…
日が落ちると、雨を混じえた風はますますひどくなった。 強風が、掘っ建て小屋を揺さぶり、建てつけの悪い戸や壁を、痛めつけた。 砂埃と湿った冷気が、容赦無く中まで入り込む。
照は、一枚戸を両手で抱えるようにして、表の風の音にじっと耳を澄ましていた。 父親が叱りつける。 「テル!何度言ったらわかる!出んじゃねぇぞ!」
照は背越しにいっときふりかえったが、すぐまた戸板に右頬をぴたりとつけて身を寄せ、びゅうびゅうと吹き荒れる風に耳を澄ませた。
父親は首を振りながら、農具の片づけに戻っていった。入れ替わりに上の兄が、柱の向こうから首を突き出した。「照、囲炉裏さ戻れ!」
それでも照は動かない。土間にぎゅっとふんばった両足が、今にも飛び出していきそうだ。
この辺りの土地は、山から降りる風が強く、嵐がよく起きた。 だが、末っ子の照の様子がおかしいのは、ここ一年ばかりのことであった。 静止もきかず、嵐のなかに飛び出たり、風に昼夜を問わず、耳を傾けたり… 家族たちは互いに顔を見合わせ、肩をすくめた。
照は一心不乱に聞いていた。
今度は来るかもしれない。 今夜は来るかもしれない。
照の小さな胸は、裂けんばかりに鳴っていた。 兄たちは夢だといって笑うが、照はいつでもそれを感じていた。 数え歳で五つの照には、まだ上手く説明できなかった。 それは風の中から、嵐のような突風のなかから来るのだ。
いっそう激しい風が、癇癪をぶちまけるように当たり、石つぶてをいちどきに破裂させた。 板壁が悲鳴をあげて震え、照の身体が戸から弾かれた。
「ほれ!いわんこっちゃない!!」 父親が風に負けじと大声で怒鳴ったが、縄をなう手は止めなかった。下の兄たちがわらわらと土間に降りた。 そして尻もちをついた妹に駆け寄り、抱え起した。
埃をはらってもらうまで、照はちょっと気が遠のいたようだった。が、すぐに目を輝かせて叫んだ。 「来たよ、来た!」
「んなわけねぇだろ!しっかりしろ!」 背筋や頭ををぽんぽんとはたかれる。「風の音だ、なんも来ねぇから」
照はぐんぐんとかぶりを振った。 首から下げた、名を墨書きした小さな守札を、左手でぎゅっと握りしめ、空いた右腕で、兄らの手を払った。「ほんとに来たの」 「なんも来ねぇよ、ほら、いいから早く手洗え」 いちばん仲の良い兄の声も耳に入らなかった。照は繰り返した。 「来たの」
つっかい棒が落ち、引き戸ががらりと開いた。
突風がここぞとばかり、勢いよく小屋のなかをかきまわした。囲炉裏の灰が噴きあがり、家族たちは思わず袖をかざして、眼をつぶった。
土間で、子供たちが必死に戸をふさいだ。 家族は、ぼうぜんとしつつ濡れた家財を片付けはじめた。慣れているから、体は勝手に動く。濡れたムシロを床からあげようとして、母親がハッと叫んだ。
「照? 照は!」
照の姿はかき消えていた。
父親は蓑をひっつかんで首に巻きつけ、何かもぐもく言いながら土間に駆け寄った。 子供たちが力を合わせ、再び戸をこじ開ける。引き戸はさっき開いたのが幻のように、横なぐりの風を受けて手に負えないほど重い。 脇から吹き込む風を、母親がムシロで防ぎ、家族総出で、やっと人ひとり通れる隙間をつくった。
父親は狭い隙間に身をねじ込んだ。 顔に叩きつける雨砂粒をこらえながら、ようよう泥のような暗がりに眼を凝らした。
ひとりの男が、目の前に立っていた。 父親は眼を疑った。
「嵐んなかで…傘さしとる」