その5
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爽やかな夏の朝。
照は、丘を上る道を、屋敷へと急いでいた。
今日からはあちらで世話になるのだ。
家を出るのは辛かったが、いつでも会いに戻れる。いや、母が来てくれるほうが多いかもしれない。男ばかり4人続いたあとに、たったひとりできた女の子を、母はうんと可愛がっていた。
ほんとうに、家では過保護なほど大事にされた。女の子だからと、川遊びや山歩きは禁じられ、力仕事をこなす兄弟をおいて、いちばんよい食事をあてがわれた。熱を出しても、薬をもらうのは照だけだった。
末の兄などは、自分のほうがひどい具合のときにも、照に花を摘んだりしてくれた。この兄はほんとうに心根が優しいのだ。
でも、家族の贔屓というか気遣いぶりは、あの夏の日から、度を増していった…
照は頭を振った。これからの事を考えよう。
願ってもない幸運であった。がんばって、先方にも可愛がられよう。気に入られたら、良い婿に世話してもらえるかも。
すでに日はさんさんと降り注ぎ、木漏れ日が眩しい。
照の心はその光のように輝いていた。
「…照が生まれてしばらく、かかあの具合が悪かった。下のガキらも小さいし、不作が続いてた。人を頼むにも先立つものがなかった。
で───」
父親は思い出したくないように言葉を途切らせた。
「それで?」
「娘が、どうにか無事三つになったんで、照を連れて、町へ降りた。庄屋に文を書いてもらって、庄屋の知りあいの口入屋に頼んだんだ。知りあいなら、照がどこへ連れてかれようと、つてが辿れると思ったんでな。
そしたら…」
「どうしたのです?」
「口入屋のやつ、髪肌につやがないとか、痩せすぎだとか、難癖をつけはじめた。庄屋の顔をつぶす気か、と言ったら、
『もし娘が五つになる前に死んだら、その家の長男次男を代りに渡すから、融通を頼む』
文にはそう書かれてると抜かしやがった」
「そいつは…酷い」
「とにかく、前金を出すと言ってくれた。だが娘は五つになるまで、うちで食わせろ、育たなかったら男手を渡すと、約束させられた」
家族は押し黙った。微かに鼻をすする音がした。
父親は苦々しげに言い放った。「どっちに転んでも損はなかったのさ」
「確かにね」
「おれたちは、照を大事にした。それは本当に───」
「照さん」
呼びとめられて、照は立ち止まった。
真新しい着物の裾がまだ馴染まず、肌に当たるのを気にしながら。どうということもない絣だが、家族にできる精一杯の晴着であった。
「どちらへ、お嬢さん」
ここらは一本道で、できたばかりの街道へ抜けるのも一本道。先は丘の上の屋敷だ。
出入りの人なら妙だな、と思いつつ照は答えた。
「笠原の御家まで」
そして、はにかみつつ、ちょっと誇らしげに付け加えた。
「今日からお屋敷にあがります。照です!」
「それは、それは」
照がぺこりと頭をさげるのを見て、箪笥をしょった男の人はまたにっこりと笑った。
そして言った。
「ところで、どうして、傘を、お持ちです?
雨も、降っていないのに」
「傘…?」
照は自分の右手を見た。
朱塗りの美しい和傘を、いつのまにか下げていた。
見覚えのない傘。
「これは…これは、母からの贈り物で…」
「ほう。母上は、その立派な傘を、どこで買ったのですか?」
「母…母は…」
うちには、傘を買う余裕なんて無い。
わかっている。
傘どころか。
私は。
照の手から、傘がすべり落ちた。
傘は地面に倒れず、ふんわりと開き、守るように照の上に浮かんだ。
風が吹き荒れはじめた。