その4


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 薬売りは番傘をさして、炎天下の、農道のどまんなかに立っていた。


 そよとも風のない、うだるような昼さがりであった。
 蝉の声以外、犬一匹の姿すらない。
 辺りは、からからに乾いた盛り土に、申し訳ていどにへばりついた野菜が、点点と残るだけの、畑また畑、藪また藪。


 薬売りは、傘の表に手のひらを滑らせた。水を吸ってずしりと重くなった番傘は、冷んやりと心地よかった。
 彼は傘を閉じ、身をかがめて、側の大樫の根もとに立てかけて置いた。


 道の真ん中に、ぼろぼろの和傘らしき残骸が捨ててあった。
 竹の骨は反り返り折れ曲がり、紙はあらかた剥げ落ちていたが、辛うじてへばりついている部分もあった。
 柄の部分が、なにやら妙だった。黒々として、不規則な節があり、そこから小枝が伸びていた。干した竹軸などではない、生木の枝でできているのだ。
 枝はわずかながら青々と芽吹き、小さな葉すらのぞかせていた。傘は「生きていた」


 不意に、その化け傘がぴょこんと立ちあがった。
 いや、垂直にはなったが、立ったのではない。
 枝の軸を下にして、宙にぷかりと浮いたのだ。


 薬売りは剣を構えた。
 退魔の剣である。
 この世ならぬ存在を、見極める剣であった。
 しかし何のいらえも無かった。
 それでも薬売りは、構えを崩さない。


 傘は宙でゆらゆらと揺れていたが、やがて、意を決したように、残った傘骨を魚のひれのように広げ、ヒョコヒョコと不器用に飛び跳ねながら近づいてきた。


 しかし、近づいたかと思うと途中で止まり、また跳ねる。同じ場所を、幾度もまたぐ。
 薬売りは傘をじっと見つめた。

 奇妙なダンスを踊ったあと、傘は柄で地面を掻くように、小刻みに震えはじめた。
 傘の下を覗き込むと、砂の上に文字が書かれていた。
 「てる」とあった。


 軽い音をたてて、傘が崩れおちた。
 枯れてひからびた残骸に戻り、砕けた。再びそれが動くことはなかった。


  ○o。○o。.。oo。.。o。.。


 薬売りは、大粒の雨が降り注ぐ街道にいた。


 大樫の下には番傘があった。傘をとろうとして身をこごめると、少し離れたところにぽつねんと建っている、一体の地蔵の姿が目に入った。
 孤独な道祖神は、吹きさらしの土手で、辛抱強く待っているように見えた。


 薬売りは、番傘を下のハジキで留めて半開きにすると、草の蔓を巻いて、地蔵の肩にくくりつけた。
 「お返ししますよ」と、彼は言った。


 地蔵の足もとには、木っ端でできた小さな守り札が落ちていた。
 「てる」と、名前が書かれていた。


  ○o。○o。.。oo。.。o。.。


 戸が開くのを、照は感じた。
 (来た!)


 その瞬間、照の目蓋いっぱいに、光が溢れた───
 照は瞼を閉じ、ひらいた。


 棒のようなものが、目の前に浮かんでいた。
 それを掴むと、照のからだは宙に舞い上がった。


 あっという間に家が遠ざかる。
 照は空を飛んでいた。


 「待ってたの」照は囁いた。
 言葉は嵐に吸い込まれた。