その3
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「照さん」 照は、すらりとした背をめぐらせて振り向いた。
彼女の胴ほどもある、大きな箪笥をしょった男がいた。
照の眼がまん丸く見開かれた。立派な箪笥も、あんな鮮やかな着物も初めて見た。 「照さん」 再び名が呼ばれた。
照は、彼女より頭ひとつ上にある男の顔を見上げた。こっちは草鞋、あちらは高下駄。なんだ、そんなに高くないわ。
「どうして私の名をご存じなの?」
男は答えずににっこりと笑い、尋ね返してきた。 「どちらへ?お嬢さん」
照は嬉しくなった。知らない人に笑顔で挨拶されるのは、認められたようで気分がいい。名を覚えてもらったなら、なおさらだ。たぶん屋敷の出入りの人で、噂にさといのだろう。 照は笑顔で答えた。 「笠原の御家まで」
薬売りと名乗る男を、父親は家に入れた。男がほんとうは山師で、娘をかどわかした仲間の居場所を知っているはずだ、と踏んだからだ。
もし、修験者だと言われたら信じただろう。だが男は、娘を探してやるから何がしの神通力にすがれ、とも言わなかった。
むしろそう頼みたかった。盗人のしわざなら、まだしもだ。身代金など到底出せないが。 この男には、行者とも商人とも盗人ともちがう、どこか浮世離れた怖さがある。早いとこ追い出したかったが、居場所をきくまではそうもいかない。 とはいえ、男がつぎに何を言い出すのか、皆目見当もつかなかった。
息子たちも外に出さなかった。上の息子二人と父親は、薬売りを囲むように炉辺に座った。周りで母親と下の息子たちが、家の片付けに忙しく動き回った。
「何を聞きたいんだね」
薬売りは父親を見据えた。
「笠原という所には、何が、あるんですかね」
「笠原?」 思いがけず、勝手知ったる近場の名が出て、父親はめんくらった。
「芝なんかをとる、只の野っ原だが…なんで?」 「どのような…場所で?」
「丘の上のちょっとした平地で、まえは、奥山一帯を治める、笠原さまのお屋敷がありました」母親がそばから口を添えた。 「お国替えでお屋敷は、山向こうの里へ移りました。そのとき殿様のおはからいで、さらったあとは入会地(いりあいち。村の共有地)に…」 女はため息をついた。「情ふかい殿様方で」 「いつ?」 「照が生まれる頃ですから、五年前になります」 「ほう」 「それと、照のかどわかしに何の関係が?」 息子のひとりがいらいらと訊く。 「照はどこにいるんだ?言えよ、何がしたいんだ」
父親の制止の前に、薬売りが言葉を発した。 「まあ、待ってください。娘さんは煙みたいに、消えた、と。先刻、下の息子さんに伺いましたが。 そいつは正しいと、俺は思うんで」 「…だから、それと笠原と何の関係が」
薬売りは声の調子を落とした。「俺も、そいつを探してるんですよ。なんで、娘さんは、笠原へなぞ、行ったんでしょうか…ねぇ」
「やっぱり知ってんじゃねぇか!この野郎ッ…」末息子が、火かき棒をいきなりつかんだと思うと薬売りへ振り下ろした。 「危ッ…」 「よセッ…」 薬売りは平然と座り続けた。 さっと左袖を振り、焼けた鉄の棒を宙で受けとめる。金属のぶつかる鈍い響き、布のくすぶるにおいが漂う。
薬売りは左袖に、みごとな一振りの短剣を仕込んでいた。 震える息子から火かき棒を取り上げ、薬売りがわけてくれた軟膏で、急いで母親がやけどを看た。着物の繕いを薬売りは拒んだ。 「俺は、娘さんが、笠原とやらに行くのを、見たわけじゃない」と薬売りは言った。 「でも、照さんが『笠原へ行く』と言っていたのは、知っている」 「どこで…?お前さんいつ、娘に会ったんだ?」 「強いて言えば、お告げ、で…ですかね」
薬売りは、謎めいた微かな笑みを浮かべた。 「信じる信じないは、皆様の自由ですが…ね」