その一 目目連


目目連


 さあっと小雨がすぎて砂埃の舞う往来をすっきりと濡らした。旅籠の提灯が宵闇にうかびあがった。呼びこみの鳴り物や、老若男女の罵声嬌声は途切れることがなく、宿場全体がいつまでも寝付かぬ子供のようにはしゃいでいた。
 そんな中にあって、萬屋のまわりだけが通夜のように沈んでいる。
「やれ、見事な寂びれ宿であるな」
 扇子をひらいて口もとを隠し、幻殃斉はこそりとつぶやいた。
 案内の仲居がじろりとにらむ。
 男はそしらぬフリで、大輪の菊や牡丹を描いた壁の錦絵をさも感嘆しきったように眺めてみせた。装飾もみごとだが、中は広広として迷うほどだ。
「さても宿場の奥座敷と、評判をとったほどの宿よな」
 しかしそれもかつては、である。



 丹後国と京をむすぶ街道にはいくつものルートがある。この宿場町が陣を構えた場所は、脇道ながら繁盛したほうの一本だった。古くは足利豊臣の世から、近江商人が足繁く通っては鯖などを京へ運んだという。
 その界隈にあって萬屋といえば、先代の女将が一介の飯炊きから身を興し、たった一代で脇本陣にのぼりつめた、大変な出世頭。
 だが宿を仕切っていた当のおかみが、この豪奢な寝所を、とつぜん売りはらって逃げるように町を去ったとあれば、あらぬ噂もよぼうというもの。
 きけば、悪霊が出るとか、女将が祟られたのだとか、はては女将が、良からぬまじないで祟りを招んだのだとか。泊まるとこっちも祟られる、などと噂が立って、客足はぱたりと途絶えた。むろん稼ぎも左前。
 今の主人が、ついに一念発起。祈祷師を招いて憑きもの祓いを催すこととなった次第。



 その祈祷師というのが、このいかにも食えない男。
 号を、柳・幻殃斉という。
 出はどこぞの素封か落胤か、とびぬけた博識じまんの修験者だ。
 ふだんは里から里へ、もっぱら講談をなりわいに諸国をわたり歩いている。とにかく弁が立つので人気があり、土地の者にこまごまとした知恵を披露するうち、いつのまにやら伯楽先生と評判が高まった。
 今回もたまたま宿場に木賃したところを、目ざとく請われたのだ。



「ご高名な幻殃斉どのには、不埒千万な頼みと存じますが…」
 宿の主人は懇願した。高名と言われて悪い気はしない。
「じつは」と主人はきりだした。「前の女将は永らく目を患っておりました。懇意の番頭をひとりだけ伴に連れ、ないないに遍路へ発ったのです」
 これには彼もおどろいた。
「じゃ、なにゆえ今さら祈祷など」
「やっかいな噂のせいですわ。祈祷会にはお役人や宿問屋さん、助郷惣代それから近隣の名主といった方々もお招きして居ります」
 祈祷のあとには宴の席が設けられていた。ははあ、と幻殃斉はみぬいた。祈祷はお膳立てにすぎないが、お祓いをやっておけば迷信ぶかい連中は安堵する。
 宴とはつまるところ寄合(会合)で、萬屋の傾いた身代についての処遇や、融通などの話も交わされるのであろう。萬屋としては宿場の連中に、立て直しの熱意と努力を出来る限りアピールしたいのだ。
「うわさに聞こえた幻殃斉殿のご高説で、ぜひとも萬屋をふたたび生かしてやってくださいまし。なにとぞ、よしなに…」
 この主人もなかなかの食わせ者である。名が知れていれば誰でもよかったにちがいないが、呪術より弁術を期待したところは全く当を得ている。面白くないが。
 ま、よかろう。神仏に背くわけでもなし。幻殃斉はひきうけた。



 くだんの座敷は白塗りの、妙にだだっ広い部屋だった。しっくい壁に囲まれ、かび臭い衝立と行灯、冬場は炬燵になるらしい大きな座卓があるだけ。
「出るというのはこの部屋か。そんな風には見えんが」
「噂だけは掃いて捨てるほど」と仲居の女。
 やはり悪霊うんぬんはなにか見まちがいで、それが女将の、突然の出奔とむすびついたのであろう。憑きものだ祟りだといっても所詮うわさにすぎなかったのである。
「に、しても、老舗の奥にしてはまた、えらく簡素なしつらいだな」
「前は観音様の絵を飾ってたそうですが」
「んじゃ、そのまま飾っておけば悪霊など出なかっただろうに」
「さあ。あとで座布団もってきますんで」
 あいそのカケラもない仲居が去ると、幻殃斉は旅荷もほどかず、畳敷きにごろり横になった。多忙な町の連中が集まるまで半時ほどのんびりできる。
 楽な仕事である。そんなんだから何を話すかなど全然考えていない。主人は勝手にいろいろ期待しているみたいだが、女将の不名誉でもいくばくか払えればましとしよう。
 開け放した障子から流れる夜風は心地好い。卓上のあかりがちらちら揺れるのを眺めながら、幻殃斉はうとうと眠りにおちた。



 半時後。
 ふと目をさますと、障子から仲居がのぞいていた。
「お客さんだそうですが…」妙な言い方をする。
 幻殃斉はめんどくさそうに手のひらを振った。
 女が引っ込むと、かわりにあらわれたのは───

「薬売り!」
 まさしく<そらりす>で乗り合わせた、あの面妖な薬売りではないか。
 幻殃斉はがばと起きあがる。「なんと!憑きものが出るとはまことであったか!」
「は?」
 薬売りは、らしくもなく抜けた声で答えた。袖すりあうも他生の縁、というが、良くて多少の縁のエセ修験者と、よもや再び出くわそうとは思ってなかったらしい。

「おぬしもこの座敷に、悪霊を斬りに招ばれたのであろうて?」
 薬売りは立ったまま部屋をみわたして、怪訝そうに、
「ここに、悪霊が?」
「まァー、単なるうわさではないかとも思っていたのだが…」
「それで、あんたは招ばれたんですかい?」
「身共か?無論だ」
 薬売りの目が泳いだ。これも珍しいことではある。「なんで噂は独り歩きしますかね…」
「え?」
「いや、こっちのことで。しかしね、この座敷にゃ、憑きものなんざ居りませんぜ」
「そうかも知れぬが、女将のこともあるし…」
「女将さん、姿が見えませんが」
「顔見知りか?」
 幻殃斉は主人から聞いた話を喋った。
「そうでしたか…」
 薬売りの声はひくく、静かな内に深い哀切があった。古希に手が届こうという女の因縁をこの謎の男は知るのだろうか。思惑までは量りかね、幻殃斉は口をつぐむ。



 ところで…、と、薬売り。卓の向かいにすっと腰をおちつける。相変わらず、猫のような物腰である。
 隈取がニヤリと笑う。「最近、なにか悪いものを貰いましたね、幻殃斉どの」

「え?」
「ほら、まわり…見てごらんなさい」

 幻殃斉は一瞬きょとんとしたが、次の瞬間、背筋が凍りついた。
 目。
 壁に、目。
 障子に、しっくい壁に、襖に、衝立に浮きあがる、目、目、目。
 無数の目が彼らをとりまいていた。
 肉体の無い目ばかり、目だらけのそれが、一斉にこっちを見た。



「んぎゃぁーあーあっ」

「あの目はね…」
 ガタガタ震える手で指差しながら腰を抜かした幻殃斉に、薬売りが何か企む顔でたたみかけた。
「かつて性質(たち)の悪い材木商にだまされた、人々の怨念…と言われてるんですよ…」

「材木?!み、身共はそんなもの、売っとらんぞっ」
 相手の蒼白ぶりなぞどこ吹く風といった体で薬売りが続ける。
「そうそう。悪い家財を買わされて、怒っているから、だましたひとを恨めしげに、見るんだそうです…よ」
 薬売りが行灯をとりあげ、ふっ、と消す。
 座敷はたちまち真暗な闇に包まれた。
 幻殃斉ふたたび「んぎゃーっ」とやらかす。

「く、薬売り!おぬし、な、なにを知っている?!」
「何にも」
 闇から声なきしのび笑いがする。
「ご存じなのは、幻殃斉どの御自身でしょう…」
「わかったわかった!わかったから灯りをつけてくれい」
「もう点けましたよ」

 ギヤマンの器でできた火入れから、ちろちろと揺れる小さな火が行灯に入ると、部屋は再び照らされた。
 アヤカシの目どもは、居たのが幻のように一匹もいない。

 幻殃斉は降参とばかりに両手をあげた。

助郷(宿場のまわりの里)の連中に、ここの悪霊を祓いにきたといったら、連中そうとう嬉しかったみたいで、布施がその、えらいたくさん集まってな…
 まあ、なんだその、ちょっと貰いすぎかもしれんとは…」
「返すつもりは、なかったんでしょう」
 ヤラセの祈祷であるから失敗するはずもない。
「前金も、貰ったんですよね」
「う、むむ…」
 こんどは幻殃斉の目が泳ぐ番だ。
 薬売りはくっくっと笑った。
「もっとも目当てはカネじゃあない、あっちはアヤカシですからね…目目連どもは、からっぽの座敷をずっと見ていたんです。ここには何もいませんが、そうゆう習わしでね…そんな奴らの視界に、貴方が入り込んで、あやうく因縁がむすばれかけた。
 そのままだと、いずれは…ってことですよ」
 薬売りにひたと見据えられ、幻殃斉は心底あおくなった。
「わかったから、そう脅してくれるな」
「脅しじゃありませんぜ」

 とはいえ、薬売りから鋭い眼光は失せていた。「それより、あの目玉ですが」
「なんだ?まだあるのか?」
「あれももう、この世のものじゃありません。くれぐれも、壁のなかを探ったりして、お持ち帰りなど、なさらぬよう…」
 ケチな材木商は、怨みのまなこさえも集めて売り飛ばした、という話である。先刻の脅し文句も、そうした下らぬ言伝えのうちにあると、わかっていても怖い自分に腹が立つ。
「誰がするかっ!?」
「こいつはとんだご注進でした…ね」
 薬売りがあまり愉快そうに笑うので、幻殃斉もついついつりこまれて笑った。笑うことは祓うこと。幻殃斉がそれに気づくのはずっと後のことである。



 さて薬売りが、所用があるといって部屋を辞してゆくと、また仲居があがってきた。幻殃斉は待たせておいて、別の窓からこっそり抜け出し、萬屋を去った。
 しばらくして、風のうわさに萬屋がとうとう店を畳んだときいた。
 目目連は、宿の最後を見届けるために集まっていたのだろう。もし、幻殃斉が祈祷会を成功させ、萬屋がまだ命脈を保っていたら、あの目どもは自分に憑いただろうか。宿の運命をいついつまでも「共に」見とどけるために。
 もしかしたら薬売りは、自分を斬りにきたのではないか───あるいは、もう斬ったのではないか、と、幻殃斉はときおり思うことがある。ちなみに布施の金は、後味が悪いので名主の家の軒先にまとめて置いてきた。そいつが目目連に脅されたという噂は聞かないが、どうでもいい。