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「お前にも一族にも迷惑をかけた。あいつが…弟が死んで、目がさめた。悔やんでも悔やみ切れない」
 男の両眼から涙があふれた。
「わしらがこんなふうだから、お前の縁談もついにまとまらなんだ。何にもまして辛かったが、それでもあいつが死ぬまで、わしは構おうともしなかった。母親が早くに逝き、たったひとり手元に残った娘の、優しさに甘んじるばかりで…。
 それなのに、わしは、娘のたったひとつの恋すらも、壊してしまった」


「───彼も若かったのでね」
 屋敷の、障子を立てた一角で、床にのべた布団の前に、羽織をきちんと着込んだ男が座っていた。
 話を聞く薬売りは、障子を隔てて縁側にいた。
 男は午前のうちに所用を済ませて、帰ってきたところだった。午後からは、娘につきっきりとのこと。
 村の有能な働き手を養子にとって、彼もまた無事に家督を譲り、今は老いた乳母と二人、娘の看病をしているという。
「村の連中との仲をなんとか保てたのも、薬商いの常連が取り持ってくれたおかげでね。本当に、あの人たちには世話になった。だから、これ以上、内輪のことで、迷惑はかけられんかった」


「───めおとにすれば、よかったじゃないですか」と、薬売り。
「騙してまで、若者を、お軽さんから、隠すなど」
「若かったんだよ」男は繰り返した。


「旅先ではつい奔放になるものさ。責めるつもりはない。縁談はぷっつりこなくなったし、できれば一緒になってくれぬかと、わしの方から頼んだくらいだ。
 しかし、国を捨てろなどとはさすがに身勝手な言い草じゃないかね。
 それでも頼んだよ。だがやはり、だめだった」
 若者の故郷には、妻子が待っていた。娘の情の深さに思い余って、お軽の父親にすべてを打ち明け、助けをもとめたのだった。
「死んだと思えば諦めると思ったんだ。まさか、患うほどに想いが強いとは…」


「…お父様が、あの人を…いえ、お父様と、あの人が?…では、彼は、彼は今も…」
「ええ、ぴんぴんしてますよ」
 女は薬売りの顔を見た。
「でも、帖面は、帖面は、大切な───」
「ええ、大切なものです。返してほしいと、願っていましたよ…」


 さまざまな情が、ないまぜになって、女の眉間に深い皺を刻んでいた。その体はさらに肉感を失い、つかみどころのない煙のような、この世ならざる呈を成した。
 薬売りの荷がはらりと開き、中からこしらえも見事な短刀が、鞘ごと飛び出した。
 己に向かって飛ぶ剣を、彼は左手ではしと掴んだ。
モノノ怪の、真と理、得たり」


 剣の柄についた飾りの獅子頭が、歯をかちんと鳴らした次の瞬間、合口から金色の閃光がほとばしった。
 暗闇を切り裂き、空へと延びる。


 金色の刃は一閃、地上の人と凧とを繋ぐ糸を絶った。
 男達はゆっくりと倒れ伏しながら消えた。


 光の刃は、凧までは及ばなかった。糸が切れた瞬間に、無数の凧はよりどころを失った。あるものはくるくると回り、あるものは気流に乗り早足で、凧は夜空のむこうへ、散り散りに飛び去った。


 女はうめき声をもらし、一筋の煙を残して消えた。
 煙は垣根を越え、庭の外へ流れ出た。
 薬売りは刀を鞘に収めた。
 闇が去ると、辺りは白白と霞んでいた。
 夜が明けていた。


 煙の行く末を、薬売りは目で追った。
 障子が開いており、男がひとり放心したように、同じように垣根のほうを見つめていた。
「娘は…娘は、戻ってきますか」夜着をまとっているが、お軽の父親にちがいなかった。
「心配ない。あれは娘さんではない、アヤカシです」 
 薬売りは剣を肩に当て、に、と笑った。
「もう、かまどの火を消しても大丈夫です。娘さんの傍にいて下さい」
「あいつも、自由になったんだろうか、あいつも…」
 薬売りの眼が、ぎ、と、睨んだ。
「そいつは、あんたがた次第だ。あたしは、とうに飛んでッたはずの凧の糸を、切っただけですよ」


 朝。
 村外れの辻の、道祖神の下の土台がめくれて、暗がりが、わずかに覗いていた。
 白い煙が、お堂の周りにまといつき、なにかをいと惜しむかのように上下になでると、ふっと、力つきたように四散した。
 古い御堂を壊さないように、薬売りはそっと地蔵を動かした。
 空洞部分に光が入ると───
 黄ばんだ帖面が覗いた。
 薬売りは穴の中に手を入れ、取り出した紙束を、荷の中にしまい込んだ。
 

 村を背に、歩き出そうとした薬売りの足が、ふと止まった。
 お軽が見送りに来ていた。
「私、これからどんなふうに生きたらよいのか、わからないんです」
 と、女は声を絞った。
 相手は振り向くと、
「あんたにゃこれから、まだまだやることが沢山ある」
 と、言った。
 女は、はっと思い当たったように、後ろを振り仰いだ。
 道は、家へと続いている。
 再び首をめぐらせると、薬売りの姿はすでに消えていた。


 飛び去る凧の糸先にはそれぞれ、小さくうごめくものがぶらさがっていた。あとから思うと、一匹一匹が蜘蛛のように見えた。庚申の夜に出るという三巳の蟲かもしれないと、親子は時々話すのだった。
 薬売りが本当は凧を斬りに来たのか、糸を切ってそれでよしとしたのか、誰にもわからない。凧が呪いであったのか、それすらも定かではなかった。ただ、凧が去った今、思い出以外に残るものは、何も無かった。