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「袖すりあうも他生の縁、と申します」
 とある森の外れであった。小さな焚き火を囲み、数人の男たちが座っていた。仲間のひとりが足を痛めて、野宿することになったという。薬を商う帰りの一行で、それぞれに付近の町や村へ散らばったあと、再び合流して里へ戻る途中なのだ、という。
「あんたはどちらの…ああ、深くは聞かぬ事にしましょう。お得意先の事情はさまざまですからね。まあ、仲良くやろうではございませんか」
 と、火に当たっていたうちの、若いひとりが手招きした。
 こんな夜更けに、独りで歩く輩をなどと、年かさの仲間が愚痴るのをなだめながら、その若者は笑顔で言った。
「いいじゃありませんか、同業のよしみですよ」


 さらに、翌日の夕暮れである。
 薬売りは、屋敷の同じ縁側で待っていた。
 女は、煙のように、唐突に現れた。もはや、体面をとり繕おうともしない。
「一つ処に長居してちゃあ、お上に叱られちまう」と薬売りはこぼした。
 その食えない男を、女は睨みつけた。
「帖面を探していらっしゃると」
「ええ」
「どなたの帳面なのですか。あなた様のですか」
「いいえ」
「では、誰かに頼まれたのですか」
「なぜ、そんなに気になるのですか」
「ああ、もしや、あなた様は───」女は両手で顔を覆った。
「いえいえ、私はただの薬売りだと、申しあげたじゃありませんか。帖面うんぬんは、ほんのついでで」
 そして空を指差した。
「私はあれを、斬りにきたんですよ」
 女は顔をあげた。「凧を、ですか?」
 薬売りはうなずいた。
「なにか…祈祷かなにかの、ことでしょうか…」
「そいつは坊主の生業、といったでしょう」
「でも斬る、って…糸を?でも…」
「でも、ばかりですね───
凧を追い払いたいのでしょう?それには、皆様の真と理が、必要なのですよ」
 薬売りは眼を細めた。
「話してくれませんか、あなたの真を」


───父が病に倒れたころ、ちょうど薬商いの一行が着きました。いつも大抵二人組で、うちか叔父の屋敷で世話するのが常でした。そのうちおひとかたが、気力をなくした父を見かねて、薬はもちろん、残りの商いを相方に任せ、季節をまたいで看病してくださったのです。
 母を早くに亡くした我が家には、私と乳母だけ。ほんとうに有り難い助っ人でした。商いのたび御厄介になる恩返しだと、その方は笑っておられました。ただそれだけの事と、わかってはいたのですが…。


 おかげで父は力を取り戻し、体もすっかりよくなりました。わたくしはその方に、ずっと留まってほしいとお願いしました。自分はただの奉公人だからと、その方は固辞されました。
 わたくしはその方に留まってほしくて、深く考えもせず、その方の行李から帖面を抜いて隠してしまいました。懸場帖にはお客様の名と処方のいろいろが書き留めてあり、ご主人から預かった命の次に大事なものだと、以前に大切そうに取り出されていたのを、覚えていたからです。
 帖面がなくなったのに気づくと、彼は心当たりを探しに行くと言いおいて、わたくしの知らぬうちに荷をまとめて出て行ってしまいました。
 そのあとで、崖の上にきちんと揃えた旅草鞋が見つかりました。結んだこよりに名前があり、彼のものでした───


「とても、とても生真面目な方でした。帖面がなくなって主人に見せる顔がないと、青くなっていました。浅はかにも、わたくしは、これであの方は国に戻らないだろうと信じたのです…帖面も、とうとう渡さずに…」
 女は袖に顔をうずめた。嗚咽が低く響いた。


 薬売りが尋ねた。「そのあと、貴方はどうされました」
「そのあと…」
 女は顔をあげ、首を傾げた。頬に涙のあとも無く、むしろ虚ろな表情であった。
「それから───?」
「わたくしは…わたくしは、父上が元気になられて、そのあと、わたくしが───」
 つぎの言葉が出ない。
 女の動きが停まった。彼女は遠くを見た。にごった灰のような瞳はどこも見ていなかった。心なしか、その姿が輪郭を失い、透きとおる淡い影を縁側に落とした。
 立ててあった障子が、かたりと鳴った。
 すっと風が凪いだ。
「ご覧なさい」


 一帯が墨を流したかのような闇に包まれていた。竹垣も見えない。
 凧はあいかわらず空にあり、そして───
 糸の先が、地上に延びていた。
 その、先に。
 人影が現れた。ひとつ、またひとつ。


「お父様!叔父上様!」
 女が叫んだ。
 凧をあげている人影。いや。
 糸の先を、人が握っているのではなかった。糸は、人々の四肢に結ばれていた。
 よく見ると四肢だけではなかった。胴にも、首にも、全身のあちこちに、糸が絡まっていた。
 凧が揺れるたび、てんでに引っ張られて、人のからだは奇妙な踊りを舞った。胴体が千切れるほどではなかったが、操られる人の顔は苦しげに歪んだ。
 首に架かる糸がゆるゆると動いて、ひとりがこちらを見た。
「お父様…」
「許しておくれ、お軽」男が言った。
モノノ怪の形、得たり」薬売りが言った。