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「ある日、叔父の屋敷の屋根から、凧が上がっていました」
 女は深くため息をつき、空を見上げた。高みを映した瞳が、水面のように揺れた。
「あれを見ると、あのときのなんとも言えない気持ちがありありと蘇りますわ」
「叔父さんが、凧を?」
 女はうつむいた。一瞬、言葉がとぎれた。
「叔父は、権利を兄へ誇示したいばっかりに、凧でうちの空を、占領しようとしたらしいのです」
「凧で…空を?」
「馬鹿々々しいでしょう」
 女の眉がくしゃりとなった。「叔母さまから聞いたときは、わたくしもどうかと」
「しかし、そういつも、いつも」
「ええ。でも、家人にも絶対下ろすな、ときつく言い含めていたそうで、凧が落ちるとひどく叱られると、よく嘆いておられました。当時、叔父はすでに家督を譲って、余裕のあるお身でしたから、もうまずご自分で。一筋、また一筋と、増えていくんです。悪夢のようでした」
「なるほど…とはいえ」
「もちろん、続くはずなかったでしょう。けれど、すぐにもっと悪いことが───最悪のことが───起きてしまったのです」
 女はまた、深深とため息をついた。「───叔父が屋根から足を滑らせて」
「凧上げの最中に」
「…はい。打ち所が悪く、そのまま亡くなりました」
 さすがの薬売りも、言葉がない。しばし沈黙が訪れた。


「それで、お父上は、どうされたのか」
「叔父の葬儀が終わった後すぐに、病に伏せってしまいました。誰も居ないのに凧が空にかかるようになったのも、そのころです。父はまだ、起きれません。お分かりでしょう?
 父の病と、あの凧が、どうつながるのかは、わたくしにはわかりません。でもあの凧はきっと呪いなんです」
「呪い…ですか」


「祓っていただけますか?」
 女は凧を指さした。
「お礼なら…」
「呪いですか」薬売りは繰り返した。
「どうか。お礼ならできるかぎり───他におすがりするひともないのです、凧が見える人はなかなかいません…どうぞ哀れとお思いになって…」
 薬売りは立ち上がり、竹垣へ二、三歩踏み出すと、向きなおった。「呪うとか祓うとかは、坊主の生業ですよ。私は薬売りで」
「でも、聞けばそうした薬売りもいるとか、何より…」
 なおも、すがろうとする女の言葉を遮り、薬売りは手を挙げた。
「そういえば、お軽さん、湯は、どうしました」
「…え?」
「足を洗う湯ですよ。持ってくると、さっきご自分で、言ったじゃないですか?」
「あ…」
 女は少し目を開いたが、さらりと詫びた。「すみません、もう、必要ないかと思ったので」
「ほう」
 薬売りは続けた。「ところで───お父上が、ご病気、とおっしゃいましたかね」
 女の瞳が、不安げに揺らいだ。「ええ、それが何か…」
「病人の伏せっている家に、旅の者を上げていいもんでしょうか、ねぇ?」
「でも、お困りになっている方がいらしては」
「困っていたのはあなたのほうで、私じゃあない。ああ、ちなみに昨夜は、隣の家でごやっかいになりました」
「そんな…まさか。今、お隣の屋敷には、誰も」


 うろたえる女を一瞥し、薬売りは再び空を見上げた。
「べつに、騙すつもりはなかったのですね、あなたの家は大きいから、よく旅人を泊めていた」
「ですから…」
「言葉が自然に。自然すぎたのですよ。お父上が病気でないと、貴方は分っていますね」
「馬鹿なことを…」
「叔母さんにもお会いしまして、ね」と薬売り。「この家で伏せっているのは、貴方だそうじゃありませんか」
「まさか。一体、何をおっしゃりたいのですか」
「さあてね」
 そしていかにも今、思い出したかのようにつけ加えた。
「実を言いますとね、私もひとつ、嘘を、つきまして」
「嘘?」
 薬売りは苦笑した。「本当はね、こちらには、ちと、用があって寄ったんですよ。
 懸場帖を、探してるんですがね───薬売りが得意先の名を書きとめた、帖面一束を、ね」
 女は瞳を見開き、全身を震わせた。両手で両肩をはしと抱くと、首を縮めながら身をねじらせ、逃げ出し───
 煙のように消えてしまった。
 すすり泣きの声が、かすかに聞こえた。