╋╋・‥… 1 …‥・╋╋


 石蹴りをする子どもが、ひとり、また一人と、日暮れの小道を辿って、家族の元へ帰ってゆく。
 夕陽の斜めの光は、郷愁の念を起こさせる。仲間たちが遊びの輪を抜けていく中、いつの世でもまだ遊び足りないというような子が、ひとりふたりはいるものだ。
 隠れんぼには暗すぎて、がさごそと草むらから這い出した男の子がふたり、道に長くのびた影を自慢しあう。
 山の辺をぐるりと巡り、ずっと行けばやがてよその郡へと通じる、村外れの古道の辻である。てっぺんに紙垂(しで)を垂らし、草鞋をひとつ吊るした竹竿がささっている。まれびとの災いを退ける魔除けだ。お堂の中で編み籠をかぶった小さな道祖神は、目鼻がだいぶ剥げてしまっている。
 二人は道の真ん中で遊びはじめた。とんぼ返り、石飛ばし、さらには飽きると、股の間から逆さに夕日を覗いて見た。ひとりがやると、もうひとりもさっそく真似した。
 地平線の向こうが眩しい。ふたりは思わず目を細めた。いつもと違って見える景色に、夕暮れはより輝いて見えた。
 光はだんだん強く、明るさを増していった。じっと目を凝らしていると、水底に沈んでゆく蜜柑のような太陽が、どんどん大きくふくらんでゆくようだった。
 やがて光は棒のように、縦に長くのび、はっきりと、金色に輝く人の姿となった。
 二人は体を起こし、道の向こうをまじまじと見つめた。


 辻のあちらから、一人の旅人が歩いて来た。
 背後から照らす夕陽が、後光となり身体を包み込んだ。


 二人がぼけっと突っ立っていると、人影はすぐそばで立ち止まった。
 背光がくっきりと、人間の姿を取った。中肉中背の男で、厚手の道中着に、菰(こも)と妙な形の行李をしょっている。髻から襟足まですっぽりと藍染めの手拭いをかぶり、足回りは袴に足袋はともかく履いているのは足駄、しかもかなりの高下駄ときて、旅姿にも珍しいいでたちであった。
 子どもらは顔を見合わせた。
「おじさん、誰?」「流行りの願人坊主かい?」
 男はうっそりと笑んだ。薄い唇にも藍をのせ、切れ長の目元は紅の隈取が隙なくふちどっている。
「ただの薬売り、ですよ」
 子どもらは、なあんだという風に肩をすくめた。一人が言った。
「うちの村にはもう別のが居るよ!」
「死んじゃったけどさ」もうひとりが言った。「崖から落ちて」
「でも請(こう。組合)からまた探しに来るって、お父が言ってた」
「そりゃそうさ、仲間だし」
「見つかっていない?」と、薬売り。
「ああ、村でも探したんだけどさ、草鞋だけ」と子どもは、右手をつまんで高い所へ置いた。
「並んでたんだと」
「だからさ…」「言うなよ…」子どもは互いに突っつきあって言葉を濁した。その様子を薬売りはじっと見つめていた。その唇には笑みとも関心ともつかぬ不可解な表情が浮かんでいた。


「ねえ、なんかおくれよ、薬売りさ…」
 さあっと冷たい風が吹き、子どもらの薄っぺらい衣のすそをひるがえした。
「寒っ!おれ帰るっ」
「あ、おーれもっ!」
 子どもの走り去る後ろ姿を、無言で見送っていた薬売りは、ふと気配を感じて、振り返った。
 女が立っていた。
 まだ若い女である。
 まるでずっと前からそこに居たかのように、ごくあたりまえに立っていた。こざっぱりした帷子に太縞の半纏をまとい、先ほどの子どもらのような小作の家の者ではない。
 夕げの時分である。おりしもかまどの煙の匂いが辺りにたちこめた。女も前掛けを結んだきりだった。
「どうも…」
 女は柔和な笑みをうかべて言った。
「薬を商う、とお聞きしましたが」
 薬売りは無言で頭を低くさげた。
「では、越中の某里から、いらした方でございましょうか」
「いえ」薬売りは首を振った。
「あちらさまとは、顔見知りでやすが、違う出で。この村は、初めてで」
「そうでしたか、わたくしもてっきり」
「お騒がせしたようで、すみません。なんせ着きましたのが、今時分でしょ。実は、宿へ向かう心積もりが、うっかり道を、間違えちまいやして」
「では、今晩はいかがなされます」
「さあて…」薬売りはいかにも困った顔で答えた。「どうしたものか」
「ならば、当家へお泊りくださいまし。何のおかまいもできませんが」
「そいつは有り難い」薬売りは又、頭を下げた。


 ひらけた田んぼ道をくねくねと抜けた、少し山寄りの丘地に、二つの萱葺き屋根が並んでいた。どちらも同じくらい、大きく立派な屋敷である。互いの母屋は、縁側で顔を見ながら世間話ができるほど近かった。
 だが二軒のあいだには、大人の背よりも高い竹垣がそびえていた。狭いところをわざわざ隔てたのである。庭もまた大小の垣根で、こまごまと二分されていた。もともと一続きの広々とした敷地が、どちらを向いても囲まれているさまは、まことに息苦しかった。
 夕暮れの空を、二つの煙が、二つの屋敷からゆっくりとたち昇っていた。
 薬売りは、煙に添って視線を上げた。
 たなびく白煙のさらにずっと上、瞬きはじめた星々の手前で、何かべつの白いものがゆらめいていた。
 それは、凧だった。
 空の高みに、幾つも、いくつも凧があがっている。
 風が安定しているのか、静かに浮かんでいるように見えた。
 が、何かが奇妙であった。


 凧糸は、当然、下にのびている。
 その先は、二つ並んだ屋敷のちょうど真ん中に降りていた。
 つまり、高い竹垣のあるあたりだ。


 あるはずの糸の先は、上空でふっつりと消えていた。
 糸の端を握る人の姿は、どこにもない。


 操る者のない凧が、高だかと空を舞っているのだ。


 女の姿もいつのまにか消えていた。
 どちらかの屋敷の手前で消えたように思うが、わからない。


 薬売りは懐から、天秤を一つ取り出した。


 手のひらにのせ、腹を親指でちょいと押し出すと、光りものをぷるりと震わせる。次の瞬間、天秤はついと弧を描き、宙に舞った。


 そして、二軒の間の高垣の上に着地した。
 ちりん、と鈴の音が鳴る。
 やや右手に傾いた。
 薬売りはかすかにうなづき、左手の屋敷へと歩き出した。