年が無事あけました
年末年始に実家へ4日間だけ帰省しました。その短い期間にやっていたことといえばモノノ怪の解釈(バカ)
蝶(蛾?)が飛び腕が連なるあのエンディングにようやく納得いく解釈が出たので、まとめている最中です。もう本当に己の満足だけですが、いたってまじめに書くつもりです。といっても、例によってそれほど驚くべき内容ではありません。ちなみに<鵺>の新たなる解釈はまとまらないうちに雲散霧消してしまいました…のっぺらについて考えていたはずのネタもどうしても思い出せず(なんか「高足」という、田楽に関することだったはずなんですが)やはり、先送りしてばかりではダメですね。今年はがんばって書こうと思います。
あけましておめでとうございます
無駄にデカくてサーセン
使われぬ色鉛筆が泣いてます
今年こそ月島でもんじゃを食ヒタヒ
また英語ネタつかって間違うって
恥ずかしいのですが。あるときthe HIATUSの3曲入りシングルからCurse Of Mineを聴いていまして、歌詞の"I've lost my faith"のフェイスを、face と勘違いしまして…
『面目ない』って何に謝るんだよ
とはなはだ恥ずかしい間違いをやらかしていました。*1
ロストフェイスの意味を調べるため辞書を引くと、まず faith のほうは『信念(信頼、信仰)を失った』てな感じが、まあまあ妥当な訳ですか、…暗い歌詞だな(おいおい)てのはまぁ置いといて。
顔 face のほうは『面目を失う、顔がつぶれる』とありました(コンサイス英和、三省堂)。
顔をなくす、がプライドや誇りの喪失に繋がるんですね。英語ではカオはあくまで表面(他人の眼)にみえる部分を指していて、カオを“身につける”と、それが“ワタシのカオ“となる…というニュアンスはなさそうです。
仮面舞踏会なんて遊びがあっても、カオを変えたら自分以外のモノになるなんて発想は、おおざっぱに言って英語圏では出てこないんでしょう。仮面は単なる隠れミノに過ぎないのですね。
のっぺらに出てくる仮面を、私は「人格」と解釈しましたが、単にお蝶さんの本心をごまかすためだけの、色鮮やかな飾りに過ぎなかったのかもしれません。
ごまかす方法(「牢屋に入る」原因、つまり「殺し方」ですよね)は沢山あるようにみえて、実はモノノ怪の「幻」、お蝶自身による偽り、“道化芝居”──たったひとりの人間が、かぶっていただけの、単なる仮面だ、と。
それでも。
敦盛の温かい言葉は、仮面に生き生きと表情を、与えてくれるのですが。
みんなずっとあんたの周りにいたんだ。気がつかなかっただけだ。人はみな忘れてしまう。
どれだけ沢山のものと出会い、どれだけ沢山のものに囲まれているのかを
あ、ハイエイタスのシングル、タイトルをインソムニア(不眠症)というんですが、マジ歌詞暗いのでお勧めしませんが、読まずに聴くだけなら美しい旋律と強力なシャウトからすさまじいパワーを貰えます。
ダウナーな歌詞は、同シングルのジャケット画にも示されているとおり、1+1=3の実現を課せられたアーティストが眠れないほど悩んだあげく、救いを求めて叫ぶ姿をまんま唄っているからなのです。と思います。
*1:これはボーカルの発音を聞き取れず、歌詞カード見ても綴りがわからなかった、全くワタクシの無知ゆえです。
ダミヤが可哀相だと思う人のために
彼が死なないエンドをひねり出しました
★ ★ ★
シュナンと手に手をとりあうセイミヤ。
幸福そうなふたりの背中をじっと見つめていたダミヤは、聖なる山々に目を転じながらふともらした。
『…私は国を…この国を守りたかった。何ら恥じることはない。聖なるものを謀ったつもりもない』
その呟きにこたえるかのように、風にのってどこからか、男のささやくような声が聞こえた…
『そうさ、これがアンタの守ってきたものだ。よっく見るがいいさ…』
★ ★ ★
姫君の髪飾り
久しぶりに部屋の片づけをしていたら(笑)、以前に買った本を発掘しました(謝)
- 作者: 君野倫子,市川染五郎
- 出版社/メーカー: 小学館
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で、片付けの常で、見つけた本をぱらぱらめくりだして、歌舞伎の衣装など目の保養しておりますと、でっかい豪華な髪飾りがなぜか記憶の糸をひきました。
「赤姫」という、女形の、髷(まげ)部分の太鼓みたいな飾りです。
これは簪(かんざし)だろーか?
「歌舞伎への誘い」より、歌舞伎の表現>役の表現>さまざまな役の表現>八重垣姫。すみません、こちらの写真に鼓は写ってないんですが、解説がありがたいので…
ちょい調べる位ではよくわかりませんが、鼓という飾りは歌舞伎専用の小道具で、売ってるようなシロモノではなさそう。そりゃそうか。
や、なぜ気になったかって?実は…このでっかい鼓型の飾り、「座敷童子」の女将、久代のカタツムリみたいな髪型に、ちょっと似てませんか?…
舞台の旅籠はかつての女郎部屋で、はっきり語られていませんが、女将もまた女郎であり、のちに屋敷ごと仕切る地位まで昇りつめたのであろうと思わせます。
女将の髪型、前から見ると、時代劇でおなじみの花魁スタイルです。しかし、まげは吹輪*1に結って、鼓っぽい(カタツムリの殻ですわな)飾りが目立っています。
そういえば、「若いころの久代」はどんな髪型だったろう?
あ、前から見るとこちらが「赤姫」ですね。びらびらつきの豪華な花かんざしが刺さっています。“文楽からの転用”という「人形じけ」(“”内引用は上掲本)こそ着けていませんが。まげ部分はどうなってるだろう?…わりと高い位置に、丸髷か、あるいは島田に結っている。高島田なら、よく浮世絵で見る禿(かむろ。平たく言うと遊女見習い)の髪型、釘打ち島田というのにも似てるかも。
第51回「静岡まつり」(「花魁道中」のコーナーに綺麗な写真が!)
あれ??老いて(一応)平和な余生を送っている現在の久代が、花魁のかんざしをさして、かつての血気さかんな若者であった久代が、お姫様飾りなんですね。で、どっちも、完璧に飾り立てているわけではない…と。
ふむ、まあ、もし、髪型の違いに意味を持たせるなら、まげの形や飾りの有無など、細部まで正確に描かれたでしょうから、ビジュアルのインパクトでデザインが決められたのだと思います。
ただ、前髪に限っては、現在が「花魁スタイル」で、若いころが「お姫様スタイル」というのは、ちょっと意味ありげな気もします。特に、昔の久代は、シャープな顔立ちに花魁ヘアーが格別似合ったろーな、と思うので、あんまり華美にしなかったのは、なんでだろう。
動かしやすいデザインとして、着崩した長襦袢?姿につりあうようボリュームダウンし、老女将と被らないヘアスタイルをえらんだにしても、…かわいいですよね。ピンクの花かんざし。
情熱の赤、銭模様のキモノをまとっていても、久代もまた、物語の姫のような想いを重ねた末に、自身の幸せを見失った女性、ということの表れ、なのかなぁ。
老いた久代が、前髪だけ花魁ふうに飾っているのは、たぶん物語の伏線というかヒントみたいなものでしょうが、なんとなく、過去の行いが正しかったと信じたいがために、苦しめられたはずの職業を栄光のようにまとっている…ようにも見えます。
★ ★ ★
そういえば本当にいまさらですが、「座敷童子」の後編で使われる襖絵の群鶏図って、雄鶏ばかりですよね。
まぁ、昔から描かれるのは大抵おんどりがセオリーなわけですし、坂井の化猫のだな〜てな位にしか思ってなかったんですが、雄ばかり密集してこっちをギロリと睨んでいる図は、物語と重ねてしまうとやっぱり怖いですねぇ。やはり、あの絵も選ばれて使われているんでしょうね。
*1:吹き輪、ふきわ。ヘアスタイルとくにまげの形を指すようです。あっ、でも久代のまげは一部を縛ってあって、ふっくら横に拡げてないから吹き輪って言わないかもしれない。間違ってたらごめんなさい。
空中ブランコ、みちゃいました
(たぶん期間限定で電気のOPエンディング試聴付プロモ見れます)
モノノ怪を通ってきた目で見るとついつい想像しすぎますよ…
あの部屋は誰の見てる部屋か?人やモノはなぜあんなふうに見えるのか?患者かそれとも…
疎外感を外国人で表すとかキター!!ってなりました、台詞での説明いらないですよ。
アンタが何処行こうと全く興味ナシ/どのみち駐車スペースはどこも満杯になってる/人喰いライオン街でのさばってる/あぁ早速食い始めやがった/でもつなぎ止めるものが何もない
(『凡人のロックンロール』mo'some tonebender)
てな具合で?、人物との距離感がちょうどいい。モノノ怪でいえば斬られて当然、べつに可哀相といわないけど気持ちはわかるかなーてな所で。
怒涛の色と情報をわーって見せられて、解決してふっと気持ちのキリカエができてる感じです。
…あ、キャラの「一部」がどーっしてもっ
マヤミネオ 画に見えてしまう
…(笑)
ヨタ2点
久しぶりに記事更新。ただのヨタ解釈です。
突然ですが『獣の奏者エリン』が面白いですねえ。リアルタイムとはいきませんが、気づいたら必ずエアチェックするようになってまった!
昨日の放映は本・再放送ともにショッキングな内容で、ジョウンを呼ぶラストは再見なれど涙腺崩壊。
オンエア自体ラストスパート、今後も目が離せません。
で、見終わった後に某所を辿って余韻を楽しんでいると、霧の民の罪意識について言及するレスがありました(もう出所はバレましたね)
「罪の意識が重い。これを呪いという」
罪意識ゆえの呪い…すぐに源慧を思い出せました(笑
さてここからが(やっと)本題。「あの海」のモノノ怪は、薬売りこそ「ちがう」と言ってくれましたけど、やはりお庸さんだったのかも、てな気がしているわけですが。
兄の悔いる心が、成仏するはずのお庸さんを繋ぎとめちゃったのかも…だから、あの海へ呼び戻したのかも…。
まあ、そこらへんは蛇足な邪推でして。ただ、源慧の意識が「己の罪」に向けられていたのは確かなようです。
しかし源慧は、罪は罪としておき、妹の成仏を信じません。お庸が呪いをもたらした、と感じるんですね。
つまり「海坊主」は、罪悪感をモノノ怪に見立てた物語なわけですが、
上でお借りしたレスをみてもわかるように、罪悪感==呪い、という「見立て」が、我々の「意識」ではいつのまにか行われている(ことがある)、
もっといえば、ときに、ちょっとした言葉の「すり替え」が起きるんですね、どうも、頭の中というか、心の中で。
ほら、罪意識は明らかに自分自身が出所ですが、
呪い、と言うと、なんとなく、ニュアンスというか、わずかですが、変わるじゃないですか。出所に対する心持ち、みたいなものが…。
(ワタクシがつい、お庸さんの存在を持ち出してしまうのも、実はさほど、源慧と変わらない思考だからで…)
でも、罪悪感と、呪いは、別モノですよね。
「海坊主」は、この「すり替え」を、じつに華やかに映像化して魅せた作品、といえると思います。皆さんは、どう感じましたか。モノノ怪だけに「むろん千差万別」だと思うのですが。
★ ★ ★
うーん。今更な余談ばかりですみませんが、さらに余談をメモ。
「海坊主」の、虚ろ舟を開けるシーン。
あのシーンは「鵺」で、室町はんが、実尊寺はんに、襖の奥へ引きずり込まれちゃう場面に、通じる気がします。
泥人形のような、巨神兵タイプ実尊寺はんは、たぶん亡霊のひとりでありますが、
襖から這い出るあのシーンではむしろ、室町の(都合よく)忘れてた記憶の一部から来る“幻”です。次の順番でイタイ目に遭う半井(なから・い)が見た“瑠璃姫”のようなもので、ほとんど自分(のやらかした罪)の化身と言ってもいいでしょう。
翻って、源慧の幻から生み出された“虚ろ舟”も、もし薬売りの護符がなければ、中からはやっぱり“なにか妖怪じみた”モノが出たんでしょうね。
なにせ、舟は源慧の心のうち(に秘めて忘れてた、かつてやらかした罪)を再現したモノで、怖れつつも想像せずにはおれなかったシロモノですから、
海座頭のいぢわるパワー全開で「なんとなく想像どおりな悪夢」を、きっとあの舟の中に用意していた事でしょう。残念でしたね、最後のビックリ箱が、薬売りさんに阻止されて…。
…あ、さては薬売り、「鵺」では自ら海座頭の役回りを演じたって事かもしれませんね。
『貴方の本当に恐ろしいものは…… コレ です ね?』
…しっくり来すぎf^_^;