薬売りの正体…??!

久しぶりの文章更新となります。(なんだか更新してない気も書いてない気もしないんですが、、、それは『幻』。自分で記したコメの日付を見りゃわかります。)


さて、軽い話から。薬売りの正体についてです。
なぜこのネタが軽いかって?
もちろん、私の考えが浅いからですよ。水素より軽いオイラのアタマ。(パクリサーセン


☆ ☆ ☆


つるっと結論から。
「薬売り」って、理想の大人像ではないか…と、思うんですね。
理由は、ふたつ。



一つめは、「モノノ怪」という作品が、

  • 昔ながらのファンタジー

を、

  • 近・現代的な群像ドラマ

にアレンジした、

  • サスペンス風の

物語である、と思うからです。



昔ながらのファンタジー、とは。
物語の中に、ある限られた時系列を持ち、その範囲内で登場人物が、何がしかの変化を果たす。
この“変化”は、宝物をゲットしたり、主人公が精神的成長をとげたり、国家転覆が成就ったりする。
つまり、時系列に不可逆的で永続的な変化が起きるわけです。
不幸な結末を迎える物語は、ゴールがバッドエンドだっただけで、“何かが変化し、もとの状態には戻らない”のは同じ。
あるいは「故郷に帰って末永く、幸せに暮らしましたとさ」エンドの結末でも、主人公の行った旅の結果として幸福があるわけで、国で一旗あげて幸せになった、という物語とは経緯が異なるわけです。
経緯と結末はひっくり返せない、そういう構造を持つのが昔ながらの(むろん現在でも通用するけども、古典的な意味での)ファンタジー物語です。



また、近・現代的な群像ドラマ、とは。
時系列が、はっきりしていません。人物は多数登場するのがふつう(2人〜数名のときもある)、主人公の存在は希薄か、あるいは不在と言ってもよく、登場人物すべてが準レギュラー的な位置づけを持つ。
そうした「個性的」なキャラどうしが複雑にかかわることで、物語が形づくられてゆきます。
各人の都合と関係のなかから、様々なイベント(出来事)が生じるのですが、あるイベントと別のイベントのあいだに、必ずしも時系列的な関係がなくてもよい。たとえばあるキャラが故郷に帰ることと、別のキャラが故郷を離れることに、特別な関連性はなくても、全体にひとつのドラマとして進んでゆけるわけです。
日常的な人間関係はふつうゆるやかにしか変化しないものです。この点で、群像ドラマは古典ドラマよりはるかにリアリティを伴います。


(本当は、「ファンタジー」と「群像ドラマ」を並列には語れません。ファンタジーとは、物語の内容の傾向を表す言葉です。ひるがえって群像ドラマとは、物語を編集するスタイルの一形式であり、古くは神話の形式にも見られる一方で、ドキュメンタリー、ノンフィクションドラマでも大いに使われる手法です。
 ここでは、“昔ながらのファンタジー”として、古典文学の英雄譚、民話っぽい昔話(桃太郎など)を想定し、また「みつばちハッチ」「銀河鉄道999」「ポールのミラクル大冒険」「あしたのジョー」といった時系列において不可逆的な要素が物語全体を絶対的に支配するマンガなどを念頭に置いて考えています。
 また、“群像ドラマ”としては、主に月9ドラマ、「ARIA(AQUA)」「みなみけ」そしてちょっと変り種として「ポケモン」「NARUTO」「ONE PIECE」「よつばと!」を想定しています。
 つまり「昔ながらのファンタジー==昔っぽいお話」、「群像ドラマ==今の連ドラっぽいお話」、をそれぞれ示すものと、おおざっぱにとらえて下さい。
 もうこの想定だけでも十分かたよっていますが、まぁヨタ話なのでご勘弁を。)


では、昔ながらのファンタジーという「不可逆的なイベントが起きるのが常套句の物語」を、群像ドラマという「イベントがいつどこで起こっててもいいようにできている物語」にアレンジする、と。
「後戻りできないイベントが次々起きるが、基本設定に変化は(殆ど)起こらない」
これが、サスペンス(・ホラーやスリラー)となるのです。



ほら、サスドラの主人公って、変わらないじゃないですか。



でも、サスペンスドラマでは、基本的にファンタジック(非現実的)なことは、起こらない。
(起こることもある。後述)
ホラーやスリラーではファンタジックな出来事もよく起きる。これらは群像ドラマのイベントと同じで、大抵はいつどこで起きてもいいように描かれる。
たとえファンタジックな出来事でも不可逆的要素を備えるとミステリになる。ミステリで時系列は、謎解きのために特に大切ですからね。
するとミステリは当然、群像ドラマみたいなイベントの起き方の物語では成立しない。
……???
サスドラの主人公は(ミステリーに比べれば)ファンタジー物語をこなせる、非現実な出来事とも共演できる(ヒッチコックやキングの悪夢物みたいに)けども、たいがい、主人公自身にはファンタジックな能力がありません。超常現象や強力な抑圧に対して常人を配置するところが、サスペンスの面白いところですから…
じゃ、ヒーローチックな主人公がいる火サスって、何…??



「昔ながらのファンタジーもの」を、「現代風な群像ドラマっぽさをもつサスドラ物」にアレンジするのは、意外にめんどくさいことが、わかっていただけたでしょうか。
それをやってのけたのが、「モノノ怪」である、という結論にいたります。(いいのか?)
いえいえ、モノノ怪は火サスである、ミステリである、いやホラーである、いやいやウルトラマンである…といった、一見矛盾するような意見が多出する理由は、そうゆうものぜんぶを含んでいて、アレンジとして成立している、からなのです。
そして成功の理由は、薬売りという基本設定が、物語内で起きたイベントの前後で全く変化しない、イベント自体も時系列のどこで起きてもかまわない(むしろわからないようにしてある)群像ドラマの手法を取り入れているからなのです。



でも、こうゆうつくりの物語って、「モノノ怪」が初出では、ないですよね。
私はよく知らないけども、たぶん、初出でないはずです。
ほんとうに特徴があるのは、薬売りに「名前すらない」という点でしょう。



主人公が「名無しさん」の物語も、決して初出ではありません。
でも、珍しいのはたしかですよね。
加えて、薬売りの男には、エピソード内に彼自身のプロフを示す手がかりが、一切ありません(現時点では)。
これらは当然、意図的なことかと。



どういう意図かといえば、
主人公にそうしたイベントが一切付随しないということによって、逆に、視聴者側のあらゆる想定が可能になる、自由にイマジンを働かせる余地ができる、という意図ですよね。
こうした意図的な操作は、なにもモノノ怪で初出ではない、ということ。
深夜アニメで、視聴者の年齢層が高めであることから、子供〜思春期向けのキャラ設定をしていないのでしょう。たとえ多少でも、ステレオタイプな過去であっても、プロフィールはあったほうが、若い世代には共感を得やすいのです。



とはいえ、じつは、いわゆるアダルト層の視聴者であっても、主人公やその他のキャラにほんとうに全くプロフィールが「存在しない」と、逆に共感しにくく、受け入れづらさを感じるのです。では、どこで補うかというと、物語内の描写ですよね。過去の経験やらなにかを“暗に匂わす”ことで、視聴者側に読み取らせるわけです。あたりまえですが、全くバックグラウンドを持たない人間というのは存在しません。イマジネーションを働かせる余地が、広くとられているということです。年齢が上がると、物事はオブラートに包まれたほうが、受け取りやすいと感じる人が、多くなりますし…。



ところが、です。
モノノ怪」は、一見、アダルト向けのサスペンスホラーを装っていながら、主人公はヒーローです(笑)
たしかに過去はわかりませんし、感情移入もしにくい。しかし、古典的なヒーローである事はまちがいありません。
サスドラの主人公のような地味さは微塵もなく、彼が動かなければ物語が1ミリも進まない…
だいいち、“悪*1”を“斬る”ラストで終わる物語が、ヒーロー物でなくてなんでしょう。
でも、ヒーロー物っていうと、たいがい第一ターゲットは、子供じゃないの??
じゃ、ウルトラマンやキタローか、というと…。
薬売りにはいまのところ、宇宙人だとか幽霊だとかいう、カケラのようなプロフィールすら、かりそめですらも無いわけで…。



アダルトで名無しのヒーローが火サスをやっている。というか、やれている。これが「モノノ怪」の特異なところです。
ここに私は、現代の大人の理想をかいま見るのです。



今の大人は、ヒーローに居てほしい“願望”はもちろんあるけども、かといって、自分がヒーローになりたい訳じゃありません(笑)
いつか破錠しそうなスーパーマン的生活はぜんぜん望まないわけです。(クラーク・ケントは今のところうまくやってるようですが…。まず、家族の協力がぜったい必要ですよね!)
でも、誰かがヒーローになると考えるのも、ためらわれる。ヒーローも人間である(あるいはそれ相応の生活がある)と思えば、ヒーロー続けさせていいのかとギモンが出てくるわけです。部下を可愛がってよくかばったりしてくれるけど、そのために出世できない上司がいるとしたら…。なんか考えさせられちゃいますよね。世の常、人の常として仕方ないのかもしれないけど、世の中としてどうよ、と思えてしまうわけです。



そんな心配を一切しなくていいヒーローがいたら。日常のしがらみからは一切解放されていながら、誰とでもそこそこしっかり絆を保ちつづけていて、問題が起きれば、ヒーローだから解決できる。
そして、自分自身では一切、問題を起こさずにいられる…。
まさに理想です。理想の大人像です。



いやあ。



☆ ☆ ☆



長くなりました。あ、もうひとつの理由ですか?
そうですね…。



薬売りのプロフィールって、なんか哀しそうじゃないですか。
私自身は、たとえばSFチックなエピソード、こっちの人間とはべつのライフサイクルをもっている等と考えてもいいんですけど、あんまし人間じゃない部分を強調するってのも哀しい(し、細部なんざ考えたら浅学のボロがでる)ので、個人の傾向としてですが、カリカチュアの一種というか、デフォルメされたキャラクターとしてだけ捉えているんです。
この考えのほうがよけい『哀しい〜〜〜ッ!!!』てヒトも、きっと居るでしょうけども。。。ま、あくまで個人としてですから。



じゃ、何のデフォルメかというと、理想の大人のデフォルメかな、と。
アニメやマンガで、理想の少年「サトシ」「ルフィ」「ナルト」理想の少女(最近の魔法もの)理想の隣人(「みなみけ」の三姉妹)理想の子供「よつば」理想の学友「ネギま」理想のペット「ポケモン」理想の敵(ガンダム系)などなど…と、延々と理想像が描かれてきたのと同じ意味で、理想の大人。
みんなそれぞれ理想としては「非の打ち所がない」でしょう?
しかし、皆、ともかくも、それぞれ適当なプロフィールを持ってます。
薬売りだけが、表現上では一切をはぶかれている。



これまたよくしらないけども、「理想の大人像」てのも、文学や漫画の中で、散々描かれてきたと思うんです。
だから、同じ描き方では、キャラも立たないetc.
作り手は、薬売りをこのように描くことで、現在ならではの理想像を、匂わせたのだな…と思うのです。よ。

*1:便宜上の、ですよ。